すっかり習慣となってきた数週間に一度の週末のNCPA通い。
ダウンロードした今シーズンのプログラムを眺め、これは面白そうだなと思う講演をメモにして、朝からジムでランニングしながら想像を膨らませ、昼食を済ませて電動スクーターで天安門を横切って辿りつくオペラハウス。
受け付けでまだチケットがあるかどうかを確認し、できるだけお値ごろのものから購入を決めていく。受け取った数枚のチケットを鞄に入れながら、「これで3-4週間先までの週末の楽しみができた・・・」とほくそ笑みながらオフィスに向かうのが習慣となってきた。
その帰り道。たまには紫禁城の西側でも北上しようかと進んでいくと右に見えてくるのが中山公园(中山公园/zhōngshān gōngyuán)。日本語では「ちゅうざんこうえん」と読むらしいがかなりややこしい。
というのも、中国で最も尊敬されている人物である孫文を記念して名付けられた公園で、そのために結構いろんな都市に同じ名前の公園を見かけることになる。なぜ「孫文」なのに、「中山」なのか?となるのが普通だが、孫文が死後尊敬を込めて「孫中山 Sūn Zhōngshān」と呼ばれたことに拠るのだが、それでは何故、孫文から孫中山に?となるがこれはまた別の話。
ではなんでその孫文にちなんだ公園がここに?となる訳だが、1925年に無くなった孫文はその死後一時期その棺がこの場に安置されたことにちなんでいるという。因みにその後棺は孫文が設立した中華民国の首都である南京に移され埋葬され、その墓は中山陵と呼ばれている。そんな訳で1928年にこの場を中山公園として名称を変更されたという。
では、中山公園になる前は一体何があって、孫文の棺が安置されるような場所であったのだろうか?ということで時代を遡っていく。
北京古代建築博物館 (先農壇) でも出てきたように、北京には九壇八廟(jiǔ tán bā miào)と呼ばれる歴史的に重要な位置を占める9つの壇と8つの寺社がある。紫禁城のすぐ西という大変重要な位置であるこの場所は、その中の一つである社稷壇(社稷坛 shè jì tán しゃしょくだん)という壇が位置していた場所である。
南京を首都として始まった明王朝。設立50年ほどした後に、北京に首都を移し現在の北京の基礎を築いていく。北京に移った明王朝は、皇帝の居城である紫禁城の南に、左右対称に先祖を祭る太廟を東に、そして国の基礎となる五穀豊穣を祈るための社稷を西に建設する。
これは儒教で重視される経書(けいしょ)の一つであり、いわゆる論語などを含む十三經(じゅうさんけい)の一つである「周礼(しゅらい zhōu lǐ)」に記載されている内容、「左に祖廟、右に社稷」に乗っ取っている。
社稷の「社」とは土の神を現し、「稷」は五穀の神を現すという。そこに台が作られ、皇帝が儀式の場として使う場として社稷壇(社稷坛 shè jì tán しゃしょくだん)が1425年に建設される。
では、どんな祭事が行われていたかと言うと、春と秋の仲月(旧暦の2月と8月)の一の戊の日の早朝に皇帝豊作を祈願する祭典が行われていたという。その壇は中央に黄色、東に青色、西に白色、南に赤色、北に黒色と言う五行思想(木・火・土・金・水)を象徴する五色の土を敷き詰められているという。
ここまで来ると相当いろんな要素が絡まりあってしまって分かりにくいが、とにかく風水都市北京の重要な場所であるということである。壇参りに励んでいる自分としてはこれは逃す手はないと、オフィス到着を数十分遅らせてスクーターを駐車場に滑り込ませて入場料の3元を支払い中へ。
前年ながら社稷壇は工事中の為に詳しくは見れないが、社稷壇の北側にある中山堂はかつての社稷殿(しゃしょくだん)といい、そこで皇帝が休んだり、雨中で祭祀をしたりするのに使った場所だという。その社稷殿も中山公園になるのに合わせ、孫文を記念した記念館として解放されている。
そんな訳でここでも3元を支払い中を見学。日本への留学中の孫文の写真や、南京で革命政府を設立した時の写真など、時代ごとに孫文の功績を紹介している。この国では孫文を理解しないといろんなことが理解できないらしく、近々本でも読まないという気になりながら、公園を更に北に向かう。
74ヘクタールというまさに巨大な権力都市であった北京のスケール感を体現するような公園は、樹齢1000年を越える古木が立ち並び、すっかりおなじみになったうっすらとした大気汚染で霞む先に見える赤い故宮の壁を見ると、「これも世界でここでしかない風景だな・・・」と思いながら、また一つ増えた壇体験に、なんだか風水の恩恵を受けたように気分が軽やかになりながら、出口へと向かうことにする。
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