2012年12月17日月曜日

末端神経としての日本

日本に出張のためにまだ人気の少ない早朝の空港内を歩きながら思う。

建築にとって、空港というのは駅舎という次に現れた公共交通空間であるにも関わらず、20世紀に駅舎が作り出した出会いと別れのシーンを飲み込む巨大な舞台空間のインパクト同様な新たなる建築空間を提示するには至っていない。

多木浩二が「都市の政治学」で述べる様に、都市の郊外に置かれ点としての都市と都市をつなぐ航路という線に乗る、拘束された身体に貶められる前の数時間を過ごす場としての空港は、ドラマを作り出すよりも、個人として過ごす空間に留まり、その現代都市での建築空間としての可能性をいまだ発揮することは無い。

機能性を追及し一つの入口から安全という監理の経路を通過する。ゲートという出来るだけ多くの飛行機が接地できるような構成は、メイン建物の壁面を多くすることが現在のところの最適解のようで、自然における最適解が同様な形状を示す端的な例に違わず、人の神経構造のように枝分かれする構造となる。

先にいえば行くほど入口からの距離は伸び、荷物を抱えた旅行者への負担は増大し、カフェやトイレなどのインフラも出来るだけ多くの人に触れるようにと、枝分かれの少ない中心に配置されるから、神経の先は寂れた温泉街の様に、暗く寒く人気もなくなる。

つまりは現代の巨大都市におけるハブ空港は、もはや一つの街としての空間性を持ちえてしまっている事実。

ではその距離を誰に強いるのか?そのゲートに配置されるのは何処かの航空会社である、何処かの国にいく便が必ず毛細血管の先に接地することとなる。

その国とはどこか?

それが空港の位置する国がその行き先の国をどう位置付けるかであり、どれだけの重要視するかの現れであるはず。

その国の人間がビジネスか観光で訪れる。
その国に住まうかの国の人間が休暇や仕事で帰国する。
かの国から観光や仕事で来ていた人間が帰国する。

それらの人の肩にのる重しの様に負わされる距離。その距離に秘められた様々な事情を感じながら辿り着く最奥のゲート。

まさに末端。

それが今のこの国での日本の位置なんだと実感しながらやっと椅子に腰を下ろす。

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