2013年10月16日水曜日

「僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか 絶望から抜け出す「ポジ出し」の思想」 荻上チキ 幻冬舎新書 2012 ★★


最近テレビでも良く見る著者。若者世代を代表しながら、様々な軽く新しいメディアを横断しながら、メディアで横行する曖昧な議論に対して、しっかりとしてデータを提示し、どう評価するかのクライテリアを明確にし、自分なりの結論を出して整理していく。

こういう若者が同じように総合地を備えた他の分野で、頭半分抜け出してきたスマートな若者同士で繋がって、また新しい言論世代を形成していくのだろうと想像できる。

全体的にはやってることは全て正しいし、言ってる事もすべて的を得ていると好感を持てる。「そりゃそうですよね」と正論だと認めざるを得ないある種のポリティカル・コレクトネス。

既存勢力に対して、「あなたはそうは言っても、その論点は結局既得権益を持っている団体に対して何も切り込んでいないじゃないですか?」なんて、建前をぶっとばして本音に切り込んでいってしまう。

だから旧態依然の政治家達がタジタジになる姿が受け、痛快に映るのだと想像する。テレビの前で多くの主婦が、「そうよそうよ、その痛いところを誰もつかないからああいう人間が偉そうにしてるのよ」とメディア側にも重宝されているのだろうと想像する。

確かに
あれはダメ。
上の世代はダメ。
既得権益持ってる世代はダメ。
何をやっても変わらない日本はダメ。
ダメだから何をやってもダメ。
ダメだといっているのが一番いい。

というのは何も生み出してなく、結局は既存の社会のシステムの中に飲み込まれていくだけである。それでは何も変わらない。そして自分たちの世代も次の世代に空虚を手渡していく。

その閉塞感。
何も変わらない。

変わったほうがいいとは誰もが思っているが、総体としては変わらないでいいという「力」が働く。その方が何かと面倒でないからだ。その方が何かと都合がいいからだと。

負の作用は弱い部分に負荷をかけ、概念的に社会の中心から離れた場所に存在するものたちに負荷をかける。

中心、それは国であり、政治であり、数であり、既得権益である。多数決で物事が決まっていく以上それは避けられない。

中心に近ければ近いほど、システムを制御する側にいればいるほど、保護が厚くなる。どんなにサボっても、どんなに能力がなくても、切り捨てられはしない。護られ、形は変えれども生きていくのに不自由はしない。

かたや中心地から遠く遠く離れたところで必死に生きている人は、どんなに能力があろうとも、どんなに努力をしようとも、母体が自らを護ろうとするときに、皮膚を刺す蚊を追い払うように、無意識にそれもいとも簡単に振り落とされる。切り捨てられる。問題はそれが中心に生きるものが何も問題だと感じていないところにある。

ダメ出しをするばかりではなく、小さくていいからとにかく始めようよと、自ら行っている行動を最後に提示する著者。そこは明らかにゴースト・ライターが一般受けやすいようなフォーマットで纏めたと思われる溢れる数の新書とは違って本人の手の痕跡がとても感じられるし、事実紹介だけに終わりなんの提案もない数々の本よりは好感が持てる。

自分に出来る社会に貢献する為に、まずは自分の職能を上げていくことが重要で、新たなる中心を作るのではなく、多くを切り捨てることなく新しいフォーマットへ移行する為に、何ができるかを数十年単位で考える事が重要なのかと改めて思うことになる。

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