2013年4月21日日曜日

リーダーの国民性

かつてパートナーから言われた言葉。

「チームというのは、自分の手が沢山あるのと一緒なんだ。それを如何にスムースに動かしてより効率的に仕事をこなしていくかは、頭となるべき自分たちにかかっているんだ」

様々な国から来ている人間と一緒に仕事をしていると、それぞれの国柄というか、国民性によって適した仕事の役割というのが見えてくる。

その中でも圧倒的に人を使うのがうまいという印象を受けるのが、アメリカ人と中国人。人を使うのがうまいというか、人に指示をすること、チームをまとめて一人では出来ないことを成し遂げていくという、リーダーとしての役割を自然と意識して仕事をする姿勢を感じる。全員が全員という訳ではないが、明らかに何人かの人たちはそういうリーダーとしての役割をこなして成長してきたのだろうと感じずにいられない。

恐らく両国共に、教育システムの中、もしくは育ってくる環境の中で、優秀な人であれば、同い年、同じ地位の中でも、チームとして目的を把握し、各メンバーの特徴や適正を理解し、適切なタイミングでやることを指示をして、締め切りを与えて進み具合をチェックし、全体のバランスをとっていく。そんなことを誰かがやらなければ組織として成り立たないし、それをやれる人間が上に立っていくんだと身体で理解しているかのようである。

そういう意味でいったら日本人はまったくダメだと思わずにいられない。

同じ立場であるのに、でしゃばるように自分が前にでて、指示をして、決断をしていく、ということは、集団の和を乱すことだし、まずなによりも自分にその権利があるなんて誰も言ってくれない。その代わり、上の立場の誰かが「お前がこの集団をまとめていけ」と皆の前で立場の違いをはっきりさせてくれればやりますよ的な態度に留まる。

またその国民性からも来るのだろうが、大きな絵を掲げるよりも、自分の世界をできるだけ閉じて人からの干渉をできるだけ小さくしたなかで、職人の様に細かい仕上げにひたすら神経を研ぎ澄ましその精度を上げていく。言われたことはまじめに、正確に、そして時間通りにやり遂げる。それがどんなに困難であっても、我慢して、ストレスに耐え切って、文句も言わずにやり遂げる。もっと評価されたいと願っても、決して言葉には出さずに、「見てくれている人は見ているはずだ」とどこまでも謙虚。

恐らくドイツ人も同じような傾向をもっており、正確な指示を出してあげるとそれに比例するように正確な仕事をやり、報告をあげてくる。仕事を処理していく段階ではこれほど嬉しい「手」は無いわけである。

それぞれの立ち位置から見える風景は違って、その風景によって見据える目的地も変わってくる訳であり、集団を率いるならば、集団の中にいて同じ風景を見ていては旗を振れない訳であり、少しでも先を見渡せるような高い位置を探して首を伸ばし、どこに行けばいいのかを必死に見つけること。そんなことを訓練をすることなく自然に身につけていく国民性。

誰にどんなことを思われようとも関係ない。自分で考え、その考えをいろんな場所でいろんな人に伝え、相手の話を聞き、意気投合し相手の信頼を勝ち取り仕事に発展させる。自分で手を動かすのではなく、その仕事をやり遂げるチームを組織し、やるべきことを明確にし、チームを動かし、プレッシャーとモチベーションを与えながら、仕事を仕上げさせてそれをお客さんに届ける。

そういう能力はある年齢になった自然に身につくものではなく、生きてくるうえで、成長していく過程で徐々に身体の一部になっていくものであり、大人になって急に「学ぼう」としても本当の意味では身につかないものだと実感する。

国際人や国際化が叫ばれる現代日本だが、国際舞台で仕事をするだけなら、英語や中国語などのツールとプロフェッショナルとしての技能をしっかりと見につけていれば十分に活躍できる人材は多く出てくるだろうが、国際社会の中でリーダーとして突出していくためには、今の日本の社会の中からは相当な突然変異体で無い限り厳しいのもまた事実であり、今度の日本はこの問題をどう解決していくのだろうかと想いを馳せることになる。

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