2013年1月17日木曜日

建築とアートの違い


建築という世界に身をおいていると、定期的に向き合うことになる設問。

「建築とアートの違いとは?」

学生などに話をする時にはよく聞く様にしているのだが、これこそ建築の本質をよく現してくれる設問に他ならない。

人によってその答えは違い、その人が何を重要視して建築に取り組んでいるかが良く透けて見えるともいえるが、現在の自分にとっては「クライアントがいるかいないか」にしかないと思われる。

では、それどういう意味だろうか?

建築はあくまでも自分以外の誰かの要望があって作り出す機会を与えられるものであり、つまりはその自分以外の誰かが何を思って、何をイメージして、どんなものを作りたがっているのか?それを知らないといけない。
つまりは建築の存在の前提には、コミュニケーション能力が横たわっているということ。

コミュニケーション力には「語学力」と「コミュニケーション能力」が大きく関与してくるのだが、「語学力」とは一般的に言われるような言語の問題ももちろん含むが、それ以上に大きな枠組みでの「語学力」とする。

ある人が何か建築物を作りたいとして、ある建築家のところにやってくるとする。その誰かが、建築家である自分と同じ言語を介するとはもちろん言えなくなってきたのがこのフラット化した世界。何をどうという機能的なことを理解するための「基本的」な言語能力。英語や中国語が新たなる世界の標準語として成立し始めている現代において、仕事がボーダーレスしていくのを食い止めることができない状況で建築家にも当然その能力は求められてくる。

その上で、多言語を母国語とするその誰かが発した言葉の裏に潜む、文化的慣習まで含んで理解していく意味での「語学力」。これはその地で生まれ育っていない外部からの人間にとっては一番ハードルが高い障害となるのだが、その言語を解する仲間と共に設計をするか、それとも時間をかけて、当地の人間とのコミュニケーションや文献などからの知識によって壁を越えていくしかなくなってくる。

そのような基本的な「語学力」だけではなく、同じ言葉を母国語とする人の間にも存在する言語のギャップ。たとえば、建築を生業としている以上、自分の親のような世代の方からも「先生」と呼んでいただき仕事を行う機会に出くわす。自分よりも遥かに長い時間を生きてきて、自分よりも遥かに良質なモノと空間を体験してきている人たちと、どのような「言語」でコミュニケーションを行うのか?

デザインがどうのとか、形がどうの、性能がどうのとかではなく、それらすべての前提に存在する、違った時間を過ごしてきた人たちとどのように未現在の空間のイメージを共有するインターフェイスを構築できるかの問題としての「語学力」。

80歳のお祖母さんが、冬場の階段の上り下りが膝にきついと言う時、その痛みをその人のものとして理解する能力があるかどうか。

経験してないこと、見たことがないこと。そのギャップをどう埋めるか、その距離をどう縮められるか。

「語学力」というのは、英語や日本語という言語の問題ではなく、その人が長年過ごしてきた時間の中で、自分の中で培ってきた想いが乗せられて発せられたある言葉の意味を、その人が意図した意味として捉えられるかどうか。

その想像力としての「語学力」。

その為に有効な手段として、自らが主人公として数々の世界を、そして時間を体験できる疑似体験として小説を読むこと。文字というものから想像力を駆使し、世界と風景を構築し、自らの身体体験として経験し理解すること。

それと同様に映画という視覚芸術によって、国籍も時間も超えて生活と空間を体験すること、知ること。

そして何よりも、できるだけ自分と異なった年齢、異なった国籍、異なった時間を過ごしてきた人々と交流を持ち、話をし、人間を理解すること。

それをどれだけ積みかさねていくことができるかが、ある建築家が生み出す空間に良い時間を重ねてきた人の肌の様に、どれだけの「皺」が刻まれているかに比例していく。

その時間の積み重ねで養われた「想像力」によって、ある誰かとの会話の中で、その人が何を意味して発しているのか、どんな空間がその欲望を満足させうるのか、それが「コミュニケーション能力」。

「語学力」と「コミュニケーション能力」。その二つがあって初めて設計というスタート地点に立てるのだとやっと分かってきた30代半ば。

今年も出来る限りこの二つの能力を伸ばすことに力を入れようと心に誓うことにし、久々に時間が取れそうな週末に溜まった映画を見ることへの口実とする。

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