良い建築に足を運び、必死に建築を見ることは、設計に時間を費やし、自分の情熱も時間も全て捧げてきたその事務所の担当者と同化することと同じである。
建築ではどんなに小さな建物でも、通常一年以上かかる設計を経て、行政からの許可を得てから工事を開始し、様々なことが起こり、それを解決することが求められる現場の監理。そんな訳で少なくとも2年ほどはかかる行程の中で、事務所の中で進行する全てのプロジェクトを統括しなければいけない代表に代わって、最前線でプロジェクトに向き合い、全ての関係者との間に入り調整をし、やりたいこととやれることの中で自分の経験を総動員しながら、足りない知識や経験は学びながら全身全霊を傾けるのはその担当者。
プロジェクトの規模にも拠るだろうが、大学を出て何年か実務を経験し、一人でプロジェクトを統括できるようになってきた時代にまかせられるのが担当者。その担当者がどれだけの情熱や思いを持って向き合うか。そしてその過程でその担当者が何に悩み、何を苦しみ、何を学び、何を決定してきたか。その全ての時間と全ての苦難の結晶が、目の前に建っている建築である。
一つ一つのディテール、素材、照明、目地、サッシ周り、足元のデザイン、アプローチ等々、全てがその担当者がこの世の中で一番時間をかけてこの建物に向き合い、彼が一番良いと判断して事務所の代表のOKを取ってきたものの積み重ねがその建築である。
予算、法規、施行可能性、施主の要望、機能性、事務所の方向性等々、様々な要因がありながらも、やはり担当者の好みや個性が必ず出てくるのが建築。その必死に過ごした時間の結晶からは多くのことが学び取れる。
どうしてこの納まりはこうなっているのだろうか?
なにがその決定を後押ししたのだろうか?
そんなことを考えながら一つ一つその背景を読み解いていく。
建築を見ることは、ある種その設計過程を読み解くミステリーの様なものである。
しかも、その設計者の手を離れ、実際に使われるようになってから分かってきた様々な不具合。つまり設計者が想定しきれていなかった自然との折衝。それが生のものとしての、人間を相手にする建築の宿命。そのような「設計以後」の状態も見ることが出来る。
恐らく多くの設計者が、そして担当者が竣工後に月日を重ねて見えてくる現象に、不具合ではないが使われていく中で「ああ、あそこはああしていれば良かったな・・・」などと思うことがある。実際に使われている建築を見て、その「ああ・・・」という担当者の思いまで想像することで、更に設計能力を向上することが出来る。そうした未来に繋がる発見こそ、一番学ぶことが出来る部分である。
そんな担当者が血の滲むようにして過ごした何ヶ月、何年の月日を余すことなく出来るだけ吸収してしまうこと。掻っ攫ってしまうこと。一生の中で実際に設計に携われる物件の数は必然的に限られてしまう。しかしこういう見方を持って訪れることが出来る建築の数は、交通の便が向上した現代においては人類史上最も建築体験をすることが出来る時代に入っている。
つまり、古代から現代に至るまで、様々な人々が設計してきた建築を体験し、そこに蓄積された人類の英知を全て吸収してしまうことが可能なわけである。
その為にはその建築の前で、自分ならこの敷地条件においてどう設計を始めるか。どうボリュームを置いて、どう機能を解いていくか。どう動線を配置し、どんな素材を採用し、設備はどうしたか、その設計過程を想像してみることが必要になる。
設計の中で何処が難しかったのか。担当者としてどこがチャレンジをしている部分か、どこで悩み、苦しみ、先輩に聞いたのか、それに思いを馳せることが必要である。
いくら若いスタッフといえども、建築という道で学び、そして自分の人生をかけている人物が一年以上もの時間を必死に向き合ってきた設計。その力は凄いものがあるはずである。それを全部吸収してしまうことは一体どれだけの価値になるのだろうかと思わずにいられない。
その担当者が犯してしまったミスから学ぶこと。
人のミスを自分のミスとして悔しがること。
なぜ設計の過程でその要因を見ることが出来なかったのか。
今の自分は見えないなにを今見なければいけないのか。
そうして過ごす時間が建築家としての職業的能力の向上を加速させる。
コルビュジェから学ぶこと。
雪舟の視線を奪うこと。
彼らが感じた「しまったなぁ・・・」ということを感じること。
離見の見(りけんのけん)から更に先へ。
歴史の先達の視線を借りて、その先に何を見ていたのか、
その境地の先にあった更なる世界を見ること。
建築巡礼の旅に出て、数多の歴史上の建築家の視線と同化し、多くの担当者の時間を垣間見る。そうして戻ってきた時には何倍もの経験値を身体の中に蓄えるような旅を建築家は人生の中で何度も繰り返すべきである。
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