2012年9月17日月曜日

「建築の可能性、山本理顕的想像力」 山本理顕 ★



学生の時に読んでいた著者の本。若いときから独立し、社会に対しての最小単位が家族であるのか、個人であるのか、現在の社会の状況を踏まえた上で社会に直接接続されるべきは個人であるとし、その奥に家族の領域があるとする、常識をまったく覆す提案とその図式。その図式を直截的に建築空間へと置換して出来上がったいくつかの作品。

長年にわたって真摯に向き合ってきた事柄に対する一人の建築家としての姿勢と、費やされた時間に裏付けされる自信に溢れたかのような言説。

建築が理論によってどう進化するか。
理論が社会への視点によってどう発展するか。
社会が建築によってどう変換されるか。

そういうことを建築を志す学生として強く感じさせれくれていた幾つもの著書とその中の理論に裏づけされた作品達。自分の中でそのような明確な建築理論と建築作品の関係性を築くには、いったいどれだけの時間が必要なのかと、学生ながらにそこまでの距離感に愕然とさせらと同時に、だから建築が日々進歩し、変化する社会に追随するように変形するんだと、建築の楽しさを教えられていた。

そんな作者の昔からの建築理論と作品、そして最近になって規模が大きくなってきた作品郡の説明を兼ねた一冊。

ある部分、冒頭に書いた社会とその構成要因との関係をずっと考えてきた建築家だけ発することができる言葉には強い説得力がある。建築を使う人たちに私たちに何ができるか。建築空間の新しい図式をどう作り出せるか。

「細胞都市」では、すべて迷路だという北アフリカのイスラム都市から細胞の顕微鏡写真のように、最終形を持たない常に完成形であり、常に成長過程である都市。全体形を持たない都市の姿より、そんな外に開いた形の都市空間を作るにはどうすればいいかと投げかけ、横浜に計画された緑園都市がその実践として説明を行う。

著者の作品郡の中でもやはり明確のその理念を現したのが、<岡山の住宅>と<保田窪第一団地>である、有名な二つのダイアグラムに示されるように、外に開く上で、構成要素のどこが外に開かれるか?それを住宅スケールと団地という集合住宅というよい大きなスケールでの実践を説明する。この二つのダイアグラムとその配置計画はその後の建築家に大きな影響を与えることになり、建築における「社会性」の必要性があたかも当たり前の様に語られる時代をつくっていった。

しかしこの文章、「住居論」に書いてあったことと同様で、書き足しなどはあるだろうが、基本的には新たな驚きなどはないといっていい。これは他の建築家にも言えるのだろうが、それぞれの作品を雑誌に発表するときに書いた説明文や、雑誌で企画された他の建築家との対談文など、その時その時に考えられていた雑多な文を編集者にのせられてか、こういう文でも書籍としてまとめて世に送り出したいという本人の想いによってなのかは知らないが、そんな比較的薄い本が多くなっている気がしてならない。

それぞれに書いてきた文を一堂に纏めてみると、自らが歩いてきた道がはっきりと見えるようだ。

なんてことは自分のブログででもやってもらえれば良いことで、「きっと売れますから」と、新しいことを発見することができな出版社の怠慢以外の何物でもないのではないか。

長年かけて真面目に考えてきたその人の建築に向かう姿勢がもれなく現されている一冊。修行の様に建築を学び、独立してからは仕事に恵まれない中でも志を曲げず苦しみ、建築が社会に対してできることがあるはずだと、一つ一つ建築を作り続け、その中で分かってきたこと、発展させてきた理論を一言すら漏らすことなく書き綴る。たった一つのことを世間に問いたいが為に発表される作品としての著作。著者の「住居論」、伊東豊雄の「風の変様体―建築クロニクル」、芦原義信の「街並みの美学」など。数多くの建築家の生きてきた時間が透けるような至極の一冊というのは、一人の建築家が一生のうちに何冊も書けるはずが無く、また建築はそんなに簡単に次から次へとアイデアが生まれることも無いはず。だからこそ、そんな一冊に出会ったときの感動は計り知れない。

そう思わせるのは、著者の「住居論」の内容が本当に素晴らしく、それに続く作品達がセンセーショナルだったからだろう。

建築の規模が大きくなり、より複雑になった学校や巨大再開発などでは、一人の建築家の想いが反映されるよりも大きな力が働き、大きな制約の中での設計になるのだろうし、それでもこれだけ新しい図式を表現したのは頑張ったほうなんだろうとも思うが、それでもやっぱり、上記の二つのダイアグラムに見えるような触れたら切れるような危うさをもちつつも、魅惑的な建築空間を想起させるそんな新しい都市的建築の図式が見てみたいと思わずにいられない。






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