一貫して感じるのは、作者の「疑問する才能」
「○○はこうである。」と自ら立てた仮定に対して、
「ではなぜそうなのか?」とその存在前提に疑問を投げかける。
極めて数学的なその姿勢。
通常の建築家なら原因と理由、機能と形態、技術とコスト、など極めて実用的なところで終わる疑問のループを、作者はどこまでも終えることなくひたすらグルグルし、そういうているうちに回転から上昇の力が加わって、建築の実用から遡りその根源まで達そうとする煌きを放つ。そんな印象。
暫く前の建築言説では、誰も彼しもとりあえず哲学を引用し、フーコーやガタリ、ドゥルーズらの文章から建築的に翻訳できる部分を自分の解釈を被せ、パノプティコンや襞などメタファーも直截も利用しまくり、とにかく自らの建築の理論的バックグランドとして使用する。
そのジェスチャーは教養無き者にはこの建築の良さは分からない、という強固なまでのエゴイスティックな防御壁であり、一般の人との距離をとり、その距離を何故だか高さに変換する思考的錯綜が良く見える。
それが現代においては、新たなパラダイムへのヒントとなるのは哲学から大きく窓を開け、複雑系や物理、数学、科学といった様々な分野へと裾野を広げている。それは建築家の視野が広くなったのか、それとも元々社会を構成する原理原則を含んだ自然科学に学ぶ姿勢をやっと建築世界が手に入れたのか。
そしてもう一つは作者は高度な他分野の知識を学び建築に翻訳する仮定の中で、前世代建築家が好んで用いた一般との距離を取ることをせずに、逆に一般の人たちにより分かりやすい言葉へと翻訳をしていく。そのことの方がより高度でより難しいことを見てきた作者だからこそ、意図的に建築を高みの位置に置く事を避ける道を選んだかの様に。
今までと同じ道を歩んでいては、決して先には進めないけれども、それを示してくれるヒントもまた人類の歩んできた歴史の中に潜んでいるんだと教えんばかり、今まで目にすることのなかったような図書が参照され、恐らくこの本を読んだ建築学生達は図書館に駆けつけその本を手にすることだろうと創造できるが、村上龍が言うように、同じ本を読むのではなく、自分の視点で発見することが必要なんだろうと思わずにいられない。必要なのは自分の思考にオーバーラップしつつドライブしていけるような新しい引用を見つけること。
こういう建築家が同世代にいてくれることを純粋に嬉しく思える一冊。
--------------------------------------------------------
--------------------------------------------------------
0 件のコメント:
コメントを投稿