2012年11月9日金曜日

「悪の教典 上・下」貴志祐介 ★★★★

「人を殺してはなぜいけないのか?」

そんな根源的な問いに対して、

「法によって罰せられることが決められていて、その後社会での生活が困難になるため」

と、何の躊躇いも無く答える人間が同じ社会の中に住んでいるとしたらどんな恐怖であろうか。

道徳やルールといった社会が成立するための前提として我々が共有していると思われる感覚をまったく持ち合わせていないのに、それを微塵も滲ませること無く、高い知性とそれを成し遂げる意思と身体能力を持ち合わせ、心理学や刑法に精通し、人心をいとも簡単に操り、良心の呵責の欠片もなく、自己の欲望の実現の邪魔になるものは排除する。

そんなサイコパスが日常に紛れ込んでいるかもしれない現代の恐怖。

「長い腕」にしても、どうも作者はサイコパスという、常識をいとも簡単に逸脱するほどの明確な自己内論理を持ちうる主人公の狂気に惹かれるようではあるが、どうしても映画「アメリカン・サイコ」の冷たいエリート殺人鬼のイメージを超えていかない。


世の中に衝撃を与える小説として、そのストーリーの前提となる軸をどれだけ歪めることができるかが重要であり、それが日常のすぐ近くにあればあるほど、差異の効果は抜群になる。

たとえば「バトル・ロワイヤル」。未来の平和な日本の中学校の風景だが、たった一点のゆがみ;中学校の一クラスが殺し合いをして生き残ったもののみが生還できる。というルールが挿入されることで、パラレル・ワールドが成立する。

そんな歪みとして用意されたのは頭脳明晰で容姿端麗、生徒想いで上司同僚からの支持も抜群という理想的な高校教師。そしてその舞台は半ば閉鎖された空間としての高校。

学校という規律と管理が支配する空間で、小学校や中学生のように圧倒的な子供でもなく、ましてや大人でもない高校生という群を相手に、自らも顔のある人間として苦しみ日常を送る教師としての大人たち。

学校が狂っているのは、生徒が狂っているだけでなく、その親も、そして教師も共に狂っている現代。誰もが過度のストレスに圧迫され、鬱憤を溜め込んで、ネットという非現実の世界でもう一人の自分を見出して加速させたその欲望を飼いならすことが出来ないままに、また現実社会のなかで徘徊し、欲望を垂れ流す。

ネットという匿名の武器を手に入れた大人以前の高校生たちが、一番近しい大人としての教師の選別を始め、学校の中に出来上がる新たなる秩序。

その中に圧倒的な知性を備えた主人公が、支配・非支配の潜在的な世界を構築し、自らの理想郷を築いていく。その設定はなかなかスリリングであり、前半はかなりよいテンポで読ませてくれるが、いかんせん、いきなりデウス・エクス・マキナで「木を隠すなら森に」と、クラス全員を一夜にして殺してしまおうというのはいただけない。ここまで積み上げてきたロジカルな展開を随分泡にしてしまう。生徒一人に一つの伏線では流石に薄っぺらくならざるを得ない。

しかし、ネットやモンスター・ペアレンツの登場によって聖職者として境界線を守り続けてきていた教師という人格も、当たり前の様に弱さや脆さを抱え、逃げることの出来ない閉鎖社会の中で苦しみを表現することなく蓄積させて、さまざまな犯罪行為に走るほどのゆがんだ欲望へと走る教師たち。

そんな犯罪者にならないまでも、頭の中で想像したことは誰にも言えないというほどの煮えたぎる悪意を抱えて今日も教壇に立っている教師は恐らく数え切れないほどこの社会の中にいるはずで、そんな彼らこそ心の中で拍手喝采を送りながら、「いいぞ、ハスミン!」と唱えているのではないだろうか。

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