20代の時には「読んでおかねければいけないのでは・・・」と思い手にとりあっさり挫折し、30代に本棚にある背表紙を見て、「そろそろ読めるようになったかな・・・」と思うがやはりてんで分からず本棚に戻し、40を超えて「再チャレンジ」と自らを鼓舞して手に取るが、やはり分からないのは相変わらずであるが、「まぁそんなもんだろう」と思えるくらいに歳を重ねたのも手伝って、流し読みながら最後まで読んでみた一冊。
というのも、どこかで「自分の価値観を貫いて成功したものに対し、それができないルサンチマンを抱えた大衆は徳という価値観を作り出し、それで自らを慰めているだけだ」というような本の解説を目にし、これはまさに今の自分に必要なだと思うことで読みきることができた。
何度読んでも空で発音できない「ツァラトゥストラ」は確かムハマンドか誰か宗教者のことをさしているはずで・・・という曖昧な情報を妻に説明するが、調べるとゾロアスター教の開祖のザラスシュトラでそれをドイツ語読みにするとツァラトゥストラとなるとのこと。それは発音できない訳だと納得。
産業革命によってもたらされた新しい社会においては、今までのように宗教が社会の指針として働くことが弱くなり、より個人が何を持って生きていくのか、何を信じ毎日を過ごすのかを考えていかなければいけないという背景から「神は死んだ」という言葉を生んだニーチェが、その生涯の思索をまとめたと言われる一冊。
山にこもり、思索を繰り返し、溢れ出る考えを太陽のように人々に分け与えたいと山を下りるツァラトゥストラが様々な人々に出会い、議論とやりとりの中で複雑な比喩の中でその考え方を表明していくのだが、なぜもう少し直接的に語らないのかと思うほどに複雑な言い回しは、やはり翻訳という理由もあるのだろうが、哲学というものはそういうものなのだろうと思いつつ、文脈がなかなか繋がらない文をなんとか進めることになる。
「神は死んだ」「ルサンチマン」「おしまいの人間」「超人」「永遠回帰」
分かったような分からないような気持ちで解説を読むと、「うーん、なるほど、そういうことか・・・」と思ってしまうから、やはりこのような哲学書を読むにはまだまだ基盤が足りないということか。
結局、今を生きていく上で、どのようにルサンチマンを克服できるのかを求めて手にしたが、どの時代でも、そしてニーチェのような思索の人でも、人は同じようなことで日々を悩み、苦しみながらも、それでもやはり生きていくのだということ。そして20代と30代の自分に、なんとかリベンジは果たしたと心の中で伝えながら、そっと本棚に戻しておく。
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