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世界遺産
八大古都
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安陽の駅に着くと、デジャブの様にどの街でも同じ風景が繰り返されるその巨大な構築物から外に出ると、高速電車の到着時間に合わせて待ち構えているタクシーの運転手が一斉に声をかけてくる。この際の運転手の振る舞いで大体この街の規模や民度がうっすらと捨て見えてくるものである。さてこの安陽。河南省の最北部に位置することも手伝い、あまり良い評判を聞かない河南の先例を受けるかのごとく、声をかけてくる運転手を振り払い列に並んでタクシーに乗り込もうとするが、それでも行く先をブロックするように身体を入れてきて歩くのを妨害される。それでしきりに「どこに行くのか。いくらでどうだ」と。
うんざりしながら、タクシーの列の先頭で待つタクシーに乗り込むが、どうやら運転手同志はすっかり横のつながりが出来ているらしく、先ほど散々妨害しがめつく声をかけてきた運転手が、車内にいた運転手を引っ張り出し運転席に納まり交渉してくる。
唖然としていると、「どこに行くんだ?殷墟か?なら100元でどうだ?」とまくし立ててくる。「メーターで計算していってくれ」というが、「ここじゃみんな交渉で値段決めるんだ。100元でどうだ」とさらにまくし立ててくる。
うんざりして、車から出て列の脇に経っている警察らしき女性の元に行き、「メーターで行くタクシーは無いのか?」と訪ねるがどうにも迷惑そうな表情をするだけで、その周りにわさーっと群がる運転手たちが更に「ここじゃ誰もメーターなんか使わないぞ」と声を浴びされる。
時間の浪費だと半ば諦め、先頭のタクシーに戻り、なんとか元からその車に乗っていた少々大人しそうな運転手と話をすると、「相乗りなら50元だ」というので、結局交渉して40元で出発。これは「久々になかなかのところに来てしまったのか・・・」と心に暗雲を立ち込めるのを感じながら、徐々に霧が濃くなり、視界を奪っていく外の天気を気にしながら中心部へと向かう。
向かった先である殷墟(殷墟,yīn xū,いんきょ)は中国の古代王朝である殷の都が置かれた場所であると言われている。殷は別名「商(shāng ,しょう)王朝」とも呼ばれており、前16世紀頃~前1050頃にこの河南省を中心として黄河の周辺で栄えた王朝とされている。
「殷、周、新、漢・・・」と世界史の授業で覚えたように、その存在が考古学的に確認されているのはこの殷が初めとされているが、中国的にはその前に「夏(xià,か)王朝」が起源だと学校でも教えているようである。
流れを見てみると、兎に角トンでもない昔に「夏」という王朝があり、何百年が続いたがその後にこの地を中心に力をつけてきた「殷」に取って代わられ、また何百年かその時代が続いた後に、今度は「周(zhōu,しゅう)」に敗れて時代を終えるという流れである。この「殷」から「周」への変遷期に活躍したのが周の軍師であった太公望(たいこうぼう)でもあり、様々な小説にもなっている話である。
世界史の教科書を思い出してみると、恐らくこの「殷」に関していくつか重要な項目があったかと思われるが、その二つが「青銅器文化」と「甲骨文字」。その二つを見るだけでもこの王朝が歴史の時間を進めるのにどれだけ大きな役割をしたかが見て取れる。
「青銅器」に関して見ると、その前の「夏」の時代にも既に使われていたようであるが、この殷時代に入ると、表面を覆う文様の複雑さが増し、またかなり大きなものも作られるようにとなっていく。その次にくる鉄器時代まで長い年月に渡り世界各地で人々の生活を助け、文明の発展を手助けしたのがこの青銅器。
そして「甲骨文字」に関してみると、その発芽はこれもまた殷を代表する「占い」に深い関係を持つ。現在の様な科学によって地球環境を把握することが難しかった時代においては、どうにかして世界を把握しようと、様々な手を使って天候や環境を理解しようと務められたのは想像に難くない。
占いの発展に欠かせないのが天の動きを読み取る天文学と、天の意志を写し取る道具達。
現在も使われる閏年。これは太陽暦を採用する国において、365日と人類の都合の様に決めた一年と、太陽の運行の微妙なずれを4年に一度1日多く挿入することで吸収しようとすることであり、つまりは4年に一度366日の一年となることである。
逆に中国で使われる暦では、一ヶ月が30日で、それによって生じる太陽の軌道とのズレを、ある一定の期間ごとに更に一ヶ月を挿入することで吸収していた。その挿入された月を閏月と呼んでおり、なんとこの閏月が行われ始めたのがこの「殷」の時代だというから驚きである。
では、今度はその天の意向を人間が読み解けるような媒体をどう作り出すか?という問題であるが、これが鹿や牛の骨に、裏面から小さな穴を開け、金火箸(かなひばし)という金属製の箸を差し込んで、徐々に熱していき、表面にできるひび割れによって、様々な意味を読み取る方法が開発された。そのひび割れの瞬間に、「ボクッ」と音がしたので、占いのことを「卜(bǔ,ぼく)」と呼ぶようになったようである。
まず始めに「卜」が漢字であること、そしてそれが「ボク」と発音されること、また「うらない」を意味することも今回始めてちゃんと知ることになるのであるが、「卜部(うらべ)」というのもこれを知れば納得できるというものである。
そんな訳で、通常の場合は鹿や牛の骨が使われ、特別なものを占うときには特別らしい、亀の甲羅が使われていたといい、その占いの結果などをその甲羅に刻んでいたのを「「卜辞(ボクジ)」と呼ばれ、いわゆる甲骨文字として発展していくこととなる。
後ほどいやとなるほど見るのであるが、この甲骨文字がその後の漢字の元となったのは間違いなく、よく見てみると実に沢山の文字がほぼ同じ形をしていることが見て取れる。つまりは、現在アジアの文化の源流を成す漢字という媒体が、この地から生まれ広がっていったという意味においては、非常に重要な意味を持つ都市というわけである。
到着した殷墟(殷墟,yīn xū,いんきょ)は、街の西の外にあり、「街一番の観光地がこれならば、大体街の規模が見て取れるな・・・」という感じのつくり。ここは殷朝後期(BC1350 - 1046)に首都が置かれたとされており、北に流れる川の更に北側にて2000年に更に広大な遺跡が発掘され、全体としては二つの異なったエリアに別れていることになる。
この南側は小屯村と呼ばれ、多くの墳墓とともに甲骨や青銅器が発掘されているという。その為中心施設は特に発掘された甲骨文字や青銅器を展示する殷墟博物館(殷墟博物苑)や、墳墓の発掘の様子を展示する建物となるのであるが、そのほとんどが建物として地上にボリュームを現すのではなく、地下に埋められる形で配置されており、全体としては平屋のボリュームが広大な敷地に点在する形となっているのは非常に好感が感じられる。
事前のリサーチが足りず、エリアが二つに分かれていること、それが徒歩でいける距離ではないこと、どちらかメインなのか、などなどほとんど分からないまま到着してしまい、とにかくチケットを購入しようと二つのエリア共通券を90元で購入する。
午後には邯鄲に移動するために駅に戻らないといけないので、孔林の様な広大な敷地であれば、回りきれないどころか午後のスケジュールを全て台無しにしてしまうだろうということで、入口近くにおいてあるシャトルバス的なものの近くにいるおじさんにどれくらいの広さか、歩いて回れるのかを訪ねてみると、「自分は無料ボランティアで、外国人には説明が無いと分かりづらいだろうから一緒に回ってやる」という。
「大丈夫かな・・・」と思いながらも、時間が無いことと建築をやってることを伝えると、結構手馴れた感じでポイントを絞って案内してくれる。「これは確かに案内無しでは理解の深さが全然違うな・・・」と思いながら、博物館の配置の元になっている甲骨文字などを見て、さっさと展示を巡っていく。
また来るときにはもっとゆっくり案内をしたいし、天津大学で日本語を学んでいるという息子にいつかあって話をしてもらいたいからと、早速wechatの連絡先を交換してくる如何にも中国人らしい人懐っこさを発揮され、一周して入口へ。「もう一つのエリアを見て回る時間はないだろうから、文峰塔まで行ってそれで駅に戻れ」というアドバイスに従い、笑顔で見送られながら次の目的地へと足をむけることにする。
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