2014年10月28日火曜日

違和感と枠組み

日本の自動車業界の売り上げ実績が好調の様である。世界規模で展開する現代のグローバル経済にとっては、円安などの為替や各国の経済状況を踏まえ、それぞれの場所でのベストな対応を選びながら、全体としてどうプラスを生み出すかが求められる。その舵取りをする経営陣はまさにかつての戦国の舞台で活躍した軍師の様な役割とダブらずにいられない。 



もちろん、企業としてその製品である車の性能と価格が競合する他社と比べて優れているからこそ、各地の消費者に受け入れられているのだろうし、恐らく環境への負荷や燃費なども、他国製品に比べてとてつもない企業努力によって大きな先進性を手にしているのだろうと想像に難くない。

しかし、こういうニュースを耳にする度に、頭の中に浮かぶかすかな違和感。これだけ一企業が巨大化し、産業だけでなく、世界規模での経済や環境に与える影響が大きくなったグローバル社会。

その中で

モノが売れれば、
会社に利益が上がれば、
消費者に受け入れられれば、

それでいいということに感じる違和感。移動が活性化し、より多くの人間が都市を選び、都市に流れ込み、同時に地方の意味も変化した現代においては、時間と距離の概念自体も変化している。

その中において、広がりに限りのある一つの都市に対してどれだけの車があれば、同時に一つの国、そして我々が住む世界に一体総数としてどれだけの車があれば、人類として、都市居住者として、適正な生活がおくれるのか。

毎年毎年、前年比プラスの販売台数を掲げることは、積み重なり世界に溢れる車の数は右肩上がりに増えるだけ。徒歩から馬車、汽車から車へと移動の速度を変えては来たが、その構成自体は変わることの無かった歴史都市においては、これだけの数の車を都市の中に抱え込むのは限界に近づいているのが、路肩を埋め尽くす路面駐車の姿が示すモスクワや北京の現在の姿。

車が増えるのと同時に、道路や駐車場、そして環境への負荷低減装置が比例して都市に施設される訳も無く、ただただ、前年比で、上半期で、この四半期での売り上げを伸ばすためにより良い車を開発し、より良い販売ルートで客の手元に届ける。その在り方は既に限界に来ているのではないのだろうかと言う違和感。

自動車産業という環境に与え、そして人々の生活や都市の在り方に大きな影響を与える分野だありながら、同時に世界でも数少ない巨大企業が主たるプレイヤーとして市場を独占する状況だからこそ、その違和感はより強化される。世界企業として、自らの産業内部からの視線において競争を勝ち抜くことと同時に、トッププライヤー同士において、産業の外へと視線を投げかけて、一体どこが飽和点で、その数字の中においての競争へとどうシフトしていくのか、そして新しい世界の在り方とその中での車という移動手段の共存の仕方をビジョンとして描き出すこと。それこそが今後の世界の主役となる世界企業に求められる本当の能力なのだろうと思わずにいられない。

そんなことを思いながら、自らが身をおく建築という世界も同様に、資本主義を最も体現する産業の一つであり、その波は開発と言う名を纏いあっという間に世界の隅々までその触手を伸ばそうとしていく。今年訪れただけでもロシアから南アフリカまで、自然を切り刻み、「儲かるから」と作り出される建築物。資本主義にかけているのは、そのシステム自体を持続可能にしようとする全体への眼差し。局所での資本バランスのみに流され、人類が快適に住まう環境とはどのようなもので、その為にはどれだけの開発が必要なのかという総合的な判断と制御はされることなく、ただただ「市場の原理」と言うもてる者にとって都合のよいフレーズばかりが繰り返される。

自動車産業の様に、目立つトッププレイヤーと名指しすることの難しい業界であるからこそ、一体どんな枠組みが効果的なのかは難しいところであるが、アフリカの荒野に無尽蔵に作り出される新しい街の姿や、モスクワ郊外の巨大なオフィスビルの群れを目にすれば、誰もがこのまま負荷を地球に与え続ければ、この世界がいつかは悲鳴を上げて壊れ始めることは理解しているこの現代。一刻も環境との平衡状態を保つ有効な術を世界が共有する日が来ること、窓の外のスモッグに覆われた街の姿を見つめながら思わずにいられない。

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