2012年12月24日月曜日

「ラブ・アクチュアリー」


クリスマスというわけで、やはり今年もこの映画を見るという妻の要望に従って、二人でケーキを突きながら、「こんなシーン、あったっけ?」などといいながら、最後はやっぱりホクホクした気分になる一作。

いつになっても古びず、大国ではないが偉大な国のイギリスらしさの沢山つまった内容で、建築家としての日々を夢見て過ごしたロンドンでの時間が、昨日の様に思い出される。

この映画を見るたびに、当時の友人たちに会いたくなり、来年こそはヨーロッパで休みを過ごして皆に会いに行こうと決意を新たにする。



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スタッフ
監督・脚本リチャード・カーティス製作ティム・ビーバン
エリック・フェルナー
ダンカン・ケンワーシー
撮影マイケル・コールター
キャスト
ヒュー・グラント
リーアム・ニーソン
エマ・トンプソン
アラン・リックマン
コリン・ファース
ローラ・リニー
キーラ・ナイトレイ
ローワン・アトキンソン
ビリー・ボブ・ソーントン
ビル・ナイ
ロドリゴ・サントロ
キウェテル・イジョフォー
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作品データ
原題 Love Actually
製作年 2003年
製作国 イギリス
配給 UIP
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2012年12月23日日曜日

記憶と記録

今読んでいる本の中に、「記憶と記録」に関するやり取りが出てきた。

これを書きたかったために、著者はこの話を構想したのだなと分かるような内容になっている。

記憶は誰もが嘘で固めらて、その中にほんのちょっとだけ事実が混じっているだけ。それが時間が経つにつれて、何度も語る中において、嘘で固められた記憶が曖昧に本当にこととして定着していく。

辛いことや悲しいことも、記憶の中で薄められること、忘れられることが可能だからこそ、今日を生きることができるわけで、どんなことも克明に覚えていなければいけないのなら、恐らく一日だって過ごすことはできないだろうと。

誰だって望むようには生きられないから、記憶の中で少しだけ手を加え、思ったように行かないからこそ、また明日を生きられるということだ。

記録することで記憶を選り分け、選り分けられた記憶の中で明日を生きる自分を見つける。そうしてキチンと過去に線を引いていくことが、この情報社会で道に迷わず生きる術なんだろうと非常に納得する内容である。


今年のうちに

今日は天皇誕生日。ここまで来ると流石に一年の終わりと意識せずにいられない。

残り数日と迫った一年の暮れに毎年思うことだが、できることなら今年出来ることは今年のうちに区切りをつけたいと願う。

建築という一つ一つのプロジェクトが数年かかるという職業に就いていると、一年というスパンでモノを考えるよりは、もっと長いスパンで物事に向き合う姿勢が必要だと思考の基準時間軸を伸ばそうと努力はするが、やはり一人の社会に生きる人間として、どうしても来年に今年の雑多な事象を持ち込みたくないと思うのものである。

読みっぱなしの本や、見っぱなしの映画、メモで終わっていた徒然なる事柄に、整理されずにいる訪れた建築、彫りかけの木彫りや、仕事の進行状況。

記録するためではなく、記憶化するために、ちゃんと自ら過ごした時間に向き合い、もう一度行ったこと、経験したこと、感じたことをしっかりと見据えて消化する。

忘れる為に言語化し、生かすために身体の外に置いておく。

部屋の中と同に、激しい情報に一年晒されてきた頭の中も、データで埋まったパソコンの中も同じように綺麗に整理整頓して次の一年に向かう。

そんなことを思いながら、残された数日に思いを馳せる天皇誕生日。

「マリーゴールド・ホテルで会いましょう」ジョン・マッデン 2011 ★★



年末に近づき、忙しないといってもいつもの週末と同じ様にオフィスに出っ放しで、妻を一人にする。なんてことはできるだけ避けようと思っていたが、やはりなんだかんだで出なければいけなくなるが、それでもいつもよりも早めに家に帰って、ささやかなクリスマスケーキを二人で食べて、たまにはゆっくりと映画を見ることに。

明日のクリスマス・イブは恒例の「ラブ・アクチュアリー」を見るようなので、恐らくそれに近いのでは?と匂ってくるようなパッケージのイギリス映画をチョイスしてみる。

結局どこの国も同じように、第二次大戦後の数年間に産まれた多くの子供達が引退の時期を迎える2010年問題。日本では団塊世代と呼ばれるが、同じような世代がイギリスにもまた存在するんだと思わずにいられない。

それにしても、こんなにお金の心配をしなくていい世代なのかと、生きることに心配をしなくていい豊かな人たちなんだと思いながら、なかなか盛り上がりのかける序盤を我慢して見続ける。

流石にこの映画は日本では決して流行らないな・・・と思いながらも最後まで見終えると、引き返すことのできない人生の下り坂に入った一人の人間としての哀愁が様々な形で描かれて、途中でやめなくて良かったと思わされる。

映画とは出会いと同じで、パッケージを手にした時に抱いた期待から、どんなに最初の印象が悪くても2時間付き合うというのは最低限のマナーであろう。どんなに最初の印象が悪くても初めてのデートくらいは最後まで終わらせるべきなのと同じように、思っても見なかった一面が徐々に見え出して、次第に興味をひかれる、何てことは往々にして起こり、そんなに安易に判断せず少しの忍耐が人生の豊かさには必要だと再認識。

今日を生きるための経済的心配をしなくて良くなると、人は「どう生きるか」に向き合わなければいけないが、それが誰にとっても幸せかというとそうでもなく、そんな余裕もなく毎日必死に生きている、そんな時間の中にいつづけ、突然自分の人生、生き方に自己評価を下して考えることを求めるのは、きっと少なくない人にとっては酷なこと。

登場するある夫婦の奥さんはとにかく何に関しても否定的。自分で行動をすることもないのに、わかったつもりで否定し、言うことなすことすべてがネガティブ。これではどんどん自分が孤立し、惨めになると自分でも分かってはいるが優しい旦那のお陰で自分を止められない、戻れない。分かっていても、生きてきしまった時間は取り戻せない。初めは些細な偏差だったが、何十年という時間の中でそれが遥かな距離になり、矯正できない自らの性格となる。

これと同じことは現代に沢山あって、「引きこもり」なんていうのも初めはちょっとした甘えから始まって、自己の肯定するためにどんどん考え方が偏り、個人、家族という小さな単位に隠れることで護られ、本当は護るほど大切なものか?も判断つかないが、社会から偏差すればするほど、自らの価値観を護ることが唯一絶対の存在意義になってしまう。

そんな状況に陥った家庭は恐らく恐ろしいほどいっぱいいるんだろうと想像を巡らす。「⚪⚪ちゃんは悪くないのよ」と我が子のその瞬間だけを肯定し人生を台無しにしてしまう。結婚しない大人たちの心の中でエコーする「きっと合う人が見つかるはず」と終わりなき自分探しの旅。

本当に大切ならば、人間が社会という多数の他人と生きていかなければいけない存在であるなら、傷つけようが、関係が壊れようが、反発されようが、どうしようとも否定をし、社会の中での立ち位置を示してあげること、思い上がりを壊してあげること、それこそが本当の愛情だと再度思い知らされる。

それにしてもやはり25歳くらいまでに遠藤周作の「深い河」に影響されて、ガンジス川に身を浸して「生と死」に思いを馳せるというパターンに間に合わなかったら、やはりインドはハードルが高いな・・・と思わずにいられない。

「スラムドッグ・ミリオネア」のデブ・パテルの相変わらずな演技に懐かしさを感じ、ビル・ナイのロックンロールな姿を明日の「ラブ・アクチュアリー」でまた目にするのかと思い、特徴的なインド美人の女優さんに、ロンドンでもあるパーティーで男性陣が騒然となったのはあるインド人だったことをふと思い出す。

きっと多くの団塊世代もこの映画を目にし、「これからの時間」に想いを馳せることになるのだろう。
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スタッフ
監督ジョン・マッデン
製作グレアム・ブロードベント
ピート・チャーニン
製作総指揮ジェフ・スコール
リッキー・ストラウス
ジョナサン・キング
原作デボラ・モガー
脚本オル・パーカー
キャスト
ジュディ・デンチ
ビル・ナイ
トム・ウィルキンソン
マギー・スミス
デブ・パテル
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作品データ
原題The Best Exotic Marigold Hotel
製作年2011年
製作国イギリス
上映時間124分
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2012年12月22日土曜日

「汉语听力速成 提高篇」



なんとか年内で終えることができたこの一冊。結局4ヶ月かかってしまったことになる。

国慶節でペースが乱れ、体調を崩して学校に行けず、クラスからどんどん遅れてしまい、やってない課はどんどん増えて、それでも毎日着実に進んでいってしまうが、仕事のストレスでまた遅れ。

とそんなことを繰り返していたら、やった内容と飛ばした内容がほぼ同数という状況になり、なんとかプラマイゼロ目指して時間を見つけてはせっせと抜けているところを埋めていき、なんとかかんとかやっと終えることができた。

新しい単語は勉強し、一度聞いてみて問題を解いてみて、本文を見てから再度聞いてみて、今度は本文をパソコンに打ち込んで、分からない単語を調べて見てから、再度聞いてみる。そして次の日に自転車乗りながら再度聞いてみる。

これで何とか一つの課がやんわりと頭に入って、新しい単語も知ってる単語になんとなく変わっていく。

せっかくなので、なかなか印象深かった内容を一つ。

 第十八课 科学与迷信 より课文4。

:今晚的月亮真圆啊!
:这让我想起了“嫦娥奔月”的故事。如果真的有嫦娥,她在月亮上一定很寂寞。
:“嫦娥奔月”虽然只是一个传说,但我觉得它表达了古代人们对月亮的好奇和想了解月亮的渴望。
:正是有了这种好奇和渴望,人类才不断地研究和探索。科学技术的发展,让人类的很多梦想都变成和现实。
:是啊。美国在1969年就成功登上了月球。我还记得当年第一个踏上月球表面的宇航员说的那句名言,“这是我个人的一少步,却是人类的一大步“。
:登上月球,确实是人类探索宇宙空间向前迈出的一大步。
:中国也成功发射了宇宙飞船,实现了太空行走,离登上月球的梦想也不远了。
:我现在也有一个梦想。
:什么梦想?
:希望有一天能乘坐宇宙飞船登上月球。
:祝你早日梦想成真!那时你就试真正的嫦娥了。


かぐや姫もやっぱり起源は大陸なんだ・・・と改めてアジアを横断する悠久の文化の川の流れに思いを馳せて、次の中級の教科書を手にすることにする。

2012年12月20日木曜日

ドイツ人の作り方

スペイン人とドイツ人の友人達と食事に出かけた席で、「言葉が考え方にどのような影響を与えるか?」という話題になる。

ちょうど前日にオフィスでしていた話を思い出す。

あるアメリカ人スタッフは小さい頃からパソコンに触れてきて、プライベートではマッキントッシュを使い、常にオフィスのWindows環境に文句を言っている。そんな彼と使っているパソコンのプラットフォームがWindowsなのか、アップルなのか、Dosなのか、どれに慣れ親しんでいるかによってどれだけ自分の思考過程が決められているか?と話をする。

そんな事を思い出しながら、如何にドイツ語がロジカルな言語であるかに話が飛び、何かを言おうとした時には、すで頭の中に誰がいつどのように何をどうしたか クリアに描けていて、その一つ一つの言葉がその状況にあうように変形されるから 一つの言葉から逆に全文が予想できるという話を聞き、そのような言語の在り方やその言語が支配する世界で生きることが事態が、ロジカルでキチッとしたドイツ人を育てあげるのだねという結論に。

言語というのは、ある民族の世界への眼差しの投影であり、世界をどう捉えるか、世界の中のどの様な事象が重要か?それを示すことに他ならない。

雨の滅多に降らない地域の水に対する言語の在り方と、高温多湿の地雨なアジアの地域の水に対する言語の在り方では確実に違いがあるように、母国語で養われるのは、言語が時間の中では培養してきた、その地域に生きて、そして死んでいった民族としての世界の投影図。誰もそこからは逃れられないし、民族のDNAとして我々の中にひっそりとだが確実に生きている。

そしてそれは他のDNAと比較することで始めて差異が認識される比較人類学と同様に、英語や中国語、ドイツ語などの言語がその成熟過程で世界に何を見たのか?を身体に入れることで初めて本当に意味で理解されるのだと思わずにいられない

多言語の環境に生活してこそ、母国語の意味が問われるのだと再認識をするある日の夕食の風景。

2012年12月19日水曜日

「エクサバイト」 服部真澄 2011 ★★★★

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目次
プロローグ 2033年
第1章 2025年
第2章 2025年
第3章 2031年
第4章 2119年
解説 池上彰
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今年度読んだ中でも強烈な印象を残した一冊に選べる一冊。

エクサバイトはデータの量やコンピュータの記憶装置の大きさを表す単位。 EBと略記される。

キロ
メガ
ギガ
テラ
ペタ
エクサ
ゼタ
ヨタ

多くのデータを扱う建築設計という世界に身をおいていても今はテラの時代。10数年前、学生時代にメガバイト時代に増えるデータ容量と、バックアップのためのHDの費用とで四苦八苦していたのが嘘の様に、ギガを超えて既にテラの時代。

もちろんオプティマイゼーションが日常業務の一つとなるのと同時に、来年はひょっとして「ペタ」と口にしているかもしれないと思わずにいられない。

かつては印刷した写真をアルバムに入れていたのがいつのことか懐かしいように、今では日常の中で写真は撮り放題で、見返すかも分からないがとにかくデータとして保存する。それどころか静止画のコマ送りである動画までデータとして保存し、個人がストックする記憶のデータは加速度的に増えていく。

現代の日常においても、「あの時みたあの建物のあの扉のディテール良かった気がするな・・・」と記憶の片隅に残っているイメージを元にして、「あそこに行ったのは何年だったっけ。何月くらいだったから・・・」とフォルダーを掘り起こし、該当する日付の写真を見つけ出す。

もしくは、保存する時にうまい事フォルダー名をつけておいたならば、「建築家の名前、建物の名前、都市の名前」など「タグ」から該当写真を見つけることが出来る。

では、今後この流れはどうなっていくだろうか?

そんな刺激的な問いに自分が知る中では一番現実性を持ち、かつ想像力豊かに答えたのがこの作品。

時は2033年。「ヴェジブル・ユニット」とよばれる極限まで小型化されたカメラを両目の間に埋め込んだ人類は、その15テラバイトのメモリ容量に支えられ、自らが見聞きしたものすべてを一生にわたって記憶し続けける。

「あなたの見てきたことが、映像となって残ります。生涯の記憶、見える日記、見える自伝」

そんな広告に誘われるように、様々な人が「ヴェジブル・ユニット」を装着し、人類の生きた映像データを増加させていく。

そうなると、そのデータを集めて、より多視点の記憶。総体的な記憶を構築しようと試みるものが現れる。まさに現代で言えばグーグルのようなIT巨人。同時間に生きるさまざまな人の見たもの、記憶をトラックできれば、例えばある殺人事件が起こったときに、その時にどういう状況だったのか?当該者達が過去にどのような問題を抱えていたのか?それがどのように発展して事件が発生したのか?などという、「マイノリティ・リポート」に近いことが可能になる。

そしてそれは、次の事件の発生を防ぐ事になる。つまりより多くの人間の記憶を手に入れたものが、より多くの力を手に入れることになる。その時に発生が予想される問題。現代の「グーグル・ストリート」で起こっている問題のより未来版。如何にプライバシーに関する問題をクリアするかまでよく考え込まれており、それがうまく物語りに入り込んでいる。

データが膨大になる時に起こるもう一つの問題。それをどうフィルタリングして、重要なものを選り分けていくか?写真でも何百と言う枚数から重要な一枚を探し出すのはとても大きな労力を使うことになる。しかも「何をポイントとして重要とするか?」というパラメーターが変わってしまえばそのフィルタリングの結果も大きく変わってしまう。

それが今度は一人の人生すべてといえる映像。そしてそのほとんどはなんとも退屈な日常風景。その中からどうやって、その人物の人生を決定付ける重要な瞬間を検索するのか?という「検索」の問題が大きくクローズアップしてくるだろうというのは、流石といえる作者の視線。

何度も何度も映像に表れてくる人物はその記憶の持ち主にとって重要な意味を持つ人物であったに違いない。

というような「タグ」のつけ方。そのタグのプログラミングを行う「検索システムデザイナー」という鋭い視点。移動や冠婚葬祭という人生の大きなターニングポイント。それらを検索し、見たいところだけをすばやく選り分け、頭だしして再生していく。

そんな時代に現れるのは、自分が生きた証を人類の歴史として提供しようとする自尊心をくすぐる巨大なビジネス。歴史に名を残したい普通の人々。通常なら死亡時にデータが消滅するべくセットされているが、本人が望めば百年後に指名した人物に記憶のデータを譲渡することが出来る。それを使って、人類の共通のデータを作って新たなる歴史を編纂しようとする意図。

一人ひとりの一生は何の変哲も無いかもしれない。しかしとある出来事が、世界を動かしているかもしれない。

まさに全人類検索。

なんとも恐ろしいが、実現しないと誰が言えるのだろうか?ではその先に待つのは何だろうか?人類の記憶を手にした一企業が次にあけるパンドラの箱とは?

それこそ歴史の捏造。

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つまり、ものを突き詰めて考えている者だけだよ。一般的には自分の理想像を残したがるからね。個々の人間が記録を美化してしまう。

古代の人間は、現代のような文明の利器や情報手段を持たなかった。けれども、だからといって不幸だったのだろうか?
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過去に何度も行われてきたように、勝者によって都合のよいように塗り替えられる歴史。誰もが懸命に自らの過去を飾り立てようとする。

引用されるのは美術修復や鑑定の技術。進歩した技術は立体画像の修復すら可能にする。しかしそこでも使われるのは修復理論の三原則と呼ばれるブランディの三原則。

1 修復に際して加える処置 その後に見たとき、明確に修復だと確認できるものでなくてはならない。
2 作品の見かけ上の仕上がりを変えてはならない
3 修復処置は容易に元に戻せるものでなくてはならない

修復というのはオリジナルに戻すことではない。あくまでも時間を経た現在の美術品の状態を修復する。

しかし悪意を持ったものが現れ、目の前にある実態を持った作品を偽装するのではなく、その物体をパソコン上に取り込んだスキャンされたデータのほうを加工したらどうなるか。柄は相変わらず偽者。ところがスキャンデータは脚色されたもの。
 
過去や現在をありのまま持ってゆくことはできない。それが現実だ、未来に残された記録データが真なのか偽なのか、誰に確かめることができるというのかね。

何が本物で何が偽者か。その質問すら何を意味するのだろうか。


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病人を献身的に介護するのは、遠隔操作でそれらの位置や角度を調整することができる介護ロボット。家族は病室に足を運ぶ必要が無く、お互いの立体映像を介し言葉を交わし、デリバリー業者によって施設に届けらる花を選ぶような世界。ツールにより距離を一足飛びに縮めていく。

オッジは今日
ドマーニは明日
イエリは昨日

組織を病ませるのは、いつだって個人
一人の野心家の存在が、いつでもすべての無にする

都合の悪いことは忘れ去る、あるいは隠す。そうしなければ、生きてゆけないんだ。人も、組織も。誰にもどうすることのできない定めなのだ。
時と記憶とは相容れないんだ。記憶された事実にこだわりすぎれば、命が危うくなる

ありがたいことに、辛い記憶や苦しい思いでは日ごとに薄らぐ。最愛の肉親を失っても、いつかは涙が涸れる。時折、感情が強く掻き立てられることはあっても。誰しも、苦しい記憶をそのままの形で恒常的に抱え続けてはやりきれない。

心の苦しみは、人をじりじりと死に導いていく。強いストレスは身体を蝕んでいく。激しい憎しみを生み、爆発的なエネルギーとなる。

誰にも、人には知られたくないことがある 万人がごまかし、自分を飾り立てる。

人間の生活は、すべて自己保存につながる行動だ。大部分はエゴの塊なのだ。

幸い記憶では、我々はそれをなかったことにできる。いともやすやすと、人は他人の知らない自分の過去を偽り、飾る。そればかりか、事実を美しい包装紙でくるみ、あたかも一場の夢であったかのように思いなしてしまう。記憶の中で、不意打ちもだまし討ちも英雄の手柄に変わる。自分に関心を持ってくれた何のとりえも無いみすぼらしい女は、歳月の中で薄倖の美女になり、くだらない切手やコインを少しばかり集めただけだったのに、失ったアルバムに備えられていた蒐集品は、どれも選りすぐりの逸品ぞろいだったと思えてくる。昔はそれだけのことができる人間だったのだ、と思い直す。自分には生きる価値があると自身に暗示をかけ、思い込み、あるいはそう振舞う事で初めて、日々、新しく生きてゆくことができる。過去に闇を持たぬ人間など居ないのだ。それでいながら、現実には、皆、そのことをものともせずに生きている・・・
それこそ記憶の効用なのだ。それゆえ・・・真実のみが織り成してきたことなど、この世には存在しなかった。これまでは。絶対にだ。嘘の糸がとめどなく吐かれ、綴られ、なかにほんの数本、真実がごく僅かに混じる、それが我々の織り成してきた世界だ。君達も同じだろう。忘れることができるからこそ、この仕事を続けながら、生き続けられる。そう思わないか。

人間の生活は、ずっと見てゆけば、いずれも似たり寄ったりなのだ。誰もが何より大切にしているのは、自身のイメージの保持だ。滑稽なくらいにね。それも、地位や持っている金の高さに比例して、それらの保持や見栄のためにあくせくして、費やす時間が増えてゆく。死んだ時間が。自分が生まれつき与えられている持ち時間が、何かによって、いつのまにか侵蝕されてゆくんだ。私は、そんな生活はごめんだと思い始めた。君達に、自身の時間はあるのかね?世間対も何も気にせずに、好きなことにかまかけて過ごせる時間が。もし、生きた時間があるのだとしたら、それを心ゆくまで楽しみ、大切にすることだ・・・
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パソコンの進化と共に、人の「記憶と記録」の役割が徐々に意味を変えてきている現代。このまま無意識に技術の進歩に身体を預けていればいったいどんな未来がやってくるのか?その時に我々の「記憶」とは何を意味するのだろうか?

作者が必死に感が抜いた末に人類に慣らした警鐘のような美しい作品。今後の人生で何度も何度もこの本を思い出す瞬間が訪れるだろうと確信しながらページを閉じることにする。