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所在地 茨城県水戸市三の丸
城郭構造 連郭式平山城
天守 なし
築城主 馬場資幹
別名 馬場城、水府城
築城 1198
機能 城郭
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日本100名城
Discover Japan「いま、見ておくべき城 100」
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「城」は訪れるのがなかなか難しい。詳しく事前調査する時間がたっぷりあれば、そこに城が残っているのか、それとも再建されているのか、それとも城跡として整備されているのか、それとも整備も何もされていないのか、などという情報を持って、どの様な訪問になるのかある程度のイメージがつけれるが、この現代社会、そんな悠長なことは言ってられない。「日本100名城」に登録されている程度の情報を持って訪れることになるので、現地で混乱することが多いものである。
という訳でこの水戸城も、もれることなく「日本100名城」に数えられているためにリストに入れていたが、その前に訪れた水戸芸術館で受付の人に「どうやって行けばいいのか?」と尋ねてみるが、「この人は何を言っているのか?」という顔をされ、「水戸城なんてありませんよ」とあっさりした返答を受け取る。城ではなく城跡なんだと理解し、ここに住まう人にとってもなんら思い入れのある場所ではないようだと察して立ち寄り地から外そうかと思うが、「日本100名城」だけでなく、「いま、見ておくべき城 100」にも数えられているなら何かあるはずだと、再度ネットで検索して城跡らしき場所まで行ってみることにする。
ナビでそれらしきところを目的地として向かうが、相当に入り組んだ道に、プラス高低差があってたどり着けないなど、何度かぐるぐる回らされることになり、やっと上に辿りつき警備員らしきおじさんに聞いてみると、なんだか嬉しそうに、「あの先の信号を左に曲がってまっすぐ行くと弘道館に就くから、そこらへんですよ」と教えてくれる。
言われるままに進んでいくと、確かに弘道館を目的地としてなら来れるかもしれないが、水戸城跡地を探してくるのは難易度が高いなと理解する。とりあえず弘道館前でサンドイッチを頬張り昼食を済ませる。
水戸藩と言えば、2代藩主の徳川光圀に次いで知名度の高い、9代藩主の徳川斉昭。その斉昭によって作れれた藩校である弘道館。徳川光圀が始めた大日本史編纂を基礎とし、水戸学の作り出す舞台となった場所である。完成したのは1841年。建物としては同じ年代の高山陣屋に似ている雰囲気で、あちらは行政の場、こちらは学問の場であるが、当時の建築が場を提供し、内部のしつらえによって機能を変化させていたことが良く分かる。
外に戻り、門の向かいの橋を渡る。ここからが所謂水戸城跡地ということらしい。しかし徳川御三家の居城であったこの水戸城であるが、どうやら尾張徳川家の名古屋城、紀州徳川家の和歌山城に比べて随分と質素なものだったようである。
徳川の世が始まるまではどちらかと言えば京都を中心とした西日本が群雄割拠の中心地であり、それほどこの地に強固な城を築く防衛の重要性が無かったこと。徳川の世が始まってからは主に北の奥州への構えとしてこの地に徳川を置いたが、結局300年に及ぶ安泰の世が続いたことから、この城が防衛の為に強固にされることは一度もなかったという訳である。その為に、、北を流れる那珂川と南部に広がる千波湖を活用し、城を囲むのは石垣ではなくすべて土塁と空堀によって構成されている点も特徴であるらしい。
この一体は現在ではすっかり文教エリアとなっており、水戸一高、水戸三高、第二中学校、三の丸小学校、茨城大附属小・幼稚園と、所謂この地の優秀な学校がこの一体に集まっているようである。
丁度子供たちの下校の時間なのか、多くの母親が子供の手を引いて歩いていく姿を見かけたのだが、すべての人が徒歩にて子供と一緒に坂を下りていく。恐らく、車での迎えは禁止されているのか、それとも坂の下までしか車で来てはいけない事になっているのか、恐らくどちらかだろうと想像しながら、やはり歴史のある街の昔から残る文教地区の文化レベルの高さを垣間見た気がし、心地よい気分で次の目的地へと向かうことにする。
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