2014年11月8日土曜日

ライフログという糸

人の一生という時間の流れの中には、様々な線が分岐している。
比較的近いDNAを持っている家族であろうとも、過ごした時間の中で経験した出来事と、
その受け取り方で微妙にだが人生の線に様々な分岐点を作り、
それぞれが自分の線を作っていく。

時間を共にした友人
考え方に影響を受けた人々
感動を受けた絵画
涙を流した映画
日が沈んだ後の海の音
頬をなでる風の心地よさ
何度も読み返した本

今の自分は10年前の自分と比べても、
恐らく同じ体験をしてもまったく異なる反応を見せるに違いない。
それはその間に過ごした時間が自分に幾多もの分岐点を与え、
当時の自分からは遥か遠くの場所に立たせているからである。

毎日の日常の中で感じる様々な悩み、喜び、悲しみ。
そんな心の揺らぎも小さな小さな分岐を自分の中に作り出し、
止まることの無い時間と同様に、自らの一生の線もくねくねと前へと進む。

自分ですら気がつかないような繊細な分岐の繰り返しによって、
明らかに物事の選択に変化が起きるが、それらの原因となる分岐については、
複雑に絡みあった体験と心情によってもたらされるものであり、
それを家族といえども他の人が100%理解することはどう考えても無理である。

しかし少なくともその変化は体験した出来事やその時々の反応を共有することによって、
少なくとも分岐後の軌跡を目撃し、理解することは出来る。
だからこそ、幼少期から家を出るまでの時間を共有した兄弟よりも、
結婚を経てその後の時間を共有する夫婦のほうが、
ある一点を越えた時点でより心理面での理解が深まるのは当然のことであろう。

移動がより活発化し、情報を選ぶ時代に入った現代においては、
同じ家の中にすんでいても、その日常のなかで過ごす時間の質はまったく異なってしまう。
ましてや、世界中に住まう可能性がある現代においては、
出身地や国籍よりも、どんな日常を過ごしているかがよりその人の人格を形成してしまう。

そんな頼りどころの揺らぎ始めた現代において、
せめて自らは、現在の自分の行動の根拠を少なくとも把握する為に、
自分の過ごしてきた人生の跡に残されたささやかな一本の糸を手繰り寄せるように、
うっすらと見える細い糸を途切れさせること無く、
選択と同時に捨て置いてきた数多の可能性の中の分岐を繰り返す自分の線を見つけていく。
その為に、日常の中で、その時の自分が何を見て、何を感じ、どう取り込んだのか。
その小さな小さな時間を身体と脳の外に置いておくことが、
山の中で道に迷わぬように、分岐点に置かれた印の様なものになる。
それがライフログ。

茂木健一郎がいうような些細なクオリアが自らの脳内でどう発生したのか。
どんな場面で見た、どんな空間が、自分の中にどんな影を落としたのか。

「軽さ」

という言葉を聞いたときに自らの脳内でどんな体験や本、空間や建築が思いおこされるのか。
その根拠となる体験と心の動きをアーカイブとして残していくこと。
自らの脳内シナプスが、どんな風に結合してより複雑性を増していったのか、
その結果見えるようになった新しい風景がどんなものだったのか、
それを少しでも自らに明らかにする為に記するのがこのブログ。

しかしどんなに頑張っても、複雑な脳内現象を言語という非常に限られたメディアを使用して100%書き留められるはずも無く、また時間のスケールを異にする脳内現象をタイピングとしてデジタル化する時間の不整合の問題も横たわる。同時に誰でもアクセスできる場所に日常の過ごし方が晒されることもまた様々な問題を引き起こす。

そんな訳で暫く今後のデジタルライフの行く末と、日々体内の蓄積する様々な体験と感情との付き合い方に思いを馳せていたが、やはり従来的なアナログ方式で、一つ一つ経験と向き合い、時間を費やし、手を使って言葉へと変換することに変わる良案が見つからず、再度こうしてブログを綴ることにする。

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