2012年10月1日月曜日

違和感


長いことモヤモヤしていた違和感。それが少しだけ晴れたような気がする。

海外に住んでいると、日本で出会う人というのは本当に限られた階層の人だけだということに気がつかされる。ひょんなことから、いろんな国のいろんなバックグランドを抱えた人間に出会うことになる。そんな訳だから出会う日本人もまた、日本ではなかなか知り合う機会が無いような人とも知り合うことになる。

この国のエネルギーに触れたいとたった一人で国を飛び出し、完全に一個人としてこちらの社会に溶け込んでいる人もいれば、常に日本を見ながらこちらの生活が嫌で嫌でしょうがないという人もいれば、誰が耳にしても知っている一流と呼ばれる会社から期間限定で語学研修というとても恵まれた待遇を与えられて来ている人もいる。

そんないろんな人と話していると、それぞれの人が「何を当たり前」と思って話しているのかによって、会話のがとても違う方向に流れていくのを感じる。

我々が通う様な語学学校で出会う数少ない日本人は、何かしら自分の興味や趣味などに惹かれてかしれないが、個人として海を渡った人が多く見られ、自分も含めてだがその人たちにとっても、この学校を選んだ理由の一つとしてあげられるのが、授業内容のレベルに対して比較的リーズナブルといえる授業料であるだろう。

そんな人にとってはできるだけ短い時間で、中国人と変わらないくらいの語学力をつけて、語学でデメリットを受けないようにし、仕事を見つけたり仕事の幅を広くしていくことが主な目的となる。もちろん授業料も実費で払っているわけだから、一日でも早く支出を止めて、収入を増やせるようにするのは死活問題となる。そんな訳だから一時間の授業にどれだけ払い、それからどれだけ自分の語学のレベルが向上したか?そのコスト・パフォーマンスへの眼差しは否が応でも厳しくなるのは当然。

それに対し、有名な語学学校でマンツーマンの授業をコスト感覚無しで好きなだけ受けることができ、しかも一年や一年半などという長期に渡って計画的に学習だけの時間が持てるような人の立場からでは、上記の様な人々の姿は決して視界に入らない。そして暗に聞こえてきそうなのが、「自分はそれを得るだけの努力をしたから当然だ」ということ。「会社が費用を出してくれて、海外経験ができて、語学も勉強できその後のキャリアアップにつながる。こんなラッキーなことない。」と。

決してその立場に立っていない自分たちへの愚痴でもないし、彼らへの羨望からくるのでもないが、いつもこういう状況に出くわすとなぜだか感じる違和感。そして一度高みの視点を手に入れてしまうと、それよりも低い位置からの風景は決して頭の中に蘇ることがないという現実。

組織として守られながら必ず戻る場所としての日本を視界に捉えてすごすその時間と、一人の個人として世界で生きるために必然として過ごすその時間。その二つに違いがあるのかと言えば、多くの人は効率がよければいいだろというのだろうし、誰もがその違いを明確に言いえなくても、それでも残る違和感。

かつて読んだ本の中の一言で、援助交際する女子高生が
「誰にも迷惑かけていないのに、何が悪いのか?」
という問いかけに似て聞こえる歪んだ論理立て。

「 それは自分自身の魂を傷つける 一番ひどい暴力なんだ。」
その問いに対して返された答え。

近年見えてきた日本のひずみ。「上には上の理論があるんだ」と、庶民の感覚からはとても理解ができない抜け穴を見つけ、それによって誰かが膨大な利益を得るように便宜を図る匿名の官僚機構。「日本の為にやっている」、「自分にはその権利がある」と。この権利を行使する為に、今までの人生で大きな努力を費やし、競争に勝ち残り、それで大きな国益を守る為に汗を流したその結果として、少しくらい自らが豊かになっても何が悪いと。

本当に努力をして権利を勝ち得た人というのは、本当にその境遇に感謝し、得るべきものを公に還元する真の滅私奉公を体言できる人のことだと思わずにいられない。それに対して今の日本を動かすべき立ち位置にいる人々は、すべて日本と言う国に依存して生きながら、決して一個人としての力では立つことなく「私」をむさぼる。

大人になるということは、大人のフリをすることで、少しでも賢く生きることが必要なのだろうが、そうして国から公が消え、「自分」だけが残り、「家族」すら崩壊し、徐々に全体が朽ちていく。そんな国では子供達にどんな「明日」を語るのだろうか。

そんなことを思いながら、「誇りに思うよ」と言葉を投げかけると、ポカンとした妻の表情を見ながら、少しだけ晴れた違和感の中せめて自分が二本の足で立つその場所だけは見失わずにいたいと願う。

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