2013年7月21日日曜日

海の博物館 内藤廣 1992 ★★


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所在地 三重県鳥羽市浦村町
設計  内藤廣
竣工  1992
機能  博物館
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日本の建築空間掲載
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建築家の内藤廣は1950年生まれなので、設計が開始された1985年時には35歳で、竣工の1997年には42歳ということになる。まさしく今の自分と同じ年代の時に設計し、完成された建物だということ。

伊雑宮から海沿いを走り辿りつく鳥羽の地。高台に走っている道より一気に海岸沿いに建つ建物までつづら折に道を下り見えてくるのが巨大な瓦屋根の建物群。この「群」という、同じ型が配置や大きさを変えながらも繰り返されるというのが、如何にも漁村を想起させ、気持ちのいいアプローチを作っている。

この建物。海に縁深い土地らしく、海女や漁師といった海と関わりながら海辺に住まう「海民(かいみん)」と呼ばれる人々の生活や暮らしぶりを紹介する博物館であり、かつては原広司設計により鳥羽市の市街地に建設されたが、社会的劣化による資料保管のキャパオーバーと、海辺の気候による大量の雨と塩害に晒された建築が雨漏りや腐食の問題を起こしたことなどから移転新築されることになり、当時大御所菊竹事務所から独立したばかりの若手建築家であった内藤廣が設計を担当することになった建築。

その設計はバブル景気の前夜の1985年から始まり、バブルがはじけた後の1992年に終了しているが、場所柄もあってかバブルの恩恵は受けることなく、非常にローコストで設計が進められたというらしい。

同じ時期に東京では3倍、4倍という坪単価の建築家のエゴと呼べるようなくだらない建築が時代を謳歌するなか、自身の信念に耳を傾け続け、今評価されるものではなく、100年後にも残るものをと魂が込められて設計されたのが良く分かる一作。

いくら規模が大きいからといっても、設計から竣工まで7年半もの歳月を費やして完成された建築を、独立したての情熱溢れる時期に手がけることができるのは、なんとも幸運なことだと思う。もちろん坪単価が安くて、相対的に報酬となる設計料も同年代の建築家が手がける馬鹿みたいな高額の商業建築などに比べたら確かに「安い」と言えるような設計料だったかもしれないが、自分が養ってきた経験と思いを存分に発揮し、それを評価してくれる施主と共に、生活を維持するのが可能な報酬をもらいながら、魂を傾ける対象があるということ。

生活の為に、魂を切り売りするかのような設計活動に毎日を過ごさなければならず、そのルーティーンの中で、いつの間にかつて持っていた情熱さえも忘れてしまう、そんな時間に溺れることが無く生きていけるのは、建築家としてはまことに稀なことであるし、その時間を過ごせる立場を捕まえることもまた、その建築家の才能と言えるのだろう。

とにかく、一つのディテールに1週間くらいかけていたのではと思えるほど、すべての場所に建築家の手の痕跡、考え抜いた跡が見れる。「海」というあまりに広大なテーマを相手にし、小手先でない長いスパンの時間を見据えて考えられたディテールたち。

日本の若い建築家なら、独立して運がよければ個人住宅の設計をやらせてもらい、施主の都合にも拠るが比較的自分が納得できるだけの時間をかけて設計をして、自分自身の中に眠っていた考え方や趣向を発見していくのだが、それが個人という相手ではなく、博物館と言う公共性を持った施設で、海と言う日常からかけ離れた時間のスケールを相手にする。そして7年半と言う時間。恐らく大変な苦労はあったのだろうが、やはり贅沢なプロジェクトだと思わずにいられない。

さて、入口の看板に「日本最高峰の木造建築」と謳われるように、様々な建築賞を総なめにし、現代における日本の建築空間を代表する作品と謳われることの多いこの建築は、雑誌などで目にする機会が大変多い。

造船の技術から想起された集成材をアーチ状に架け渡されたものと、プレキャストコンクリートを山型フレームにして架け渡された、独特な二つの収蔵空間。それが「海」というテーマと、ローコストという制約を受けながら、耐久性を求められるなかで、若い建築家が最新の技術の裏づけを取りながらも、伝統的な工法を再解釈して辿りついたその解放。

そんな前情報は、ある種の神聖さを醸し出す、北欧の小ぶりだがなんとも柔らかい空間をつくりだす木造教会のような荘厳な空間を想像させていた。そんなバリバリに上がったハードルを心に抱えて足を踏み入れたのもあるが、やはり博物館という機能上、何かを伝えるために、人形やパネルでできるだけ分かりやすく展示をするのは避けがたく、空間は文字と立体情報に埋め尽くされる。

博物館である以上、それが宿命であり、その時に建築は語るものではなく静かな背景としてあるべきである。だから何か勝手に期待するこちらが悪いのだが、上を見上げると雄弁に語りそうなトップライトと視線を落とした先に見える溢れるような展示物のギャップに何故だか心が痛む。

恐らく建築家として、この場所で長く生きる公共の建築を手がける前に、何度も足を運んだであろう伊勢の神宮空間。日常とはまったくかけ離れたスパンの時間を生きてきたその社殿と境内空間に、何かしらこのプロジェクトのヒントを見つけようと歩き回ったに違いない。

若い建築家の湧き出るような野心。その野心の向かう先はバブルに踊る東京に目を向けてではなく、伊勢に君臨する日本の原空間とも呼べる聖域。それらと四つに組んで、どう戦えるか?悠久の時間の中で生きる寺社空間を体験したあとに、一体どんなスパンの時間を相手にし設計するか?

生半可なものでは、返って表層的に見えてしまう。どうするかと考えた挙句にすくいだしたのが、島国日本を作り上げてきた海の民の生活としての「船」の空間。そこに見えるもう一つの日本の空間性。海、船、漁村。見えるものではなく、日本人のDNAに刻まれたそれらの記憶をコンテクストとして設計の基準点として据えてみる。そうして見えてくる建築を超えた時間軸とスケール感。それがその後の建築家が建築の枠組みを超えて、土木との新しい融合へと進んでいくきっかけになったのは想像に難くない。

今の自分とどうしても重ねずにいられないが、建築家という職能人として向かえる30代半ば。希望、後悔、羨望、妬み、嫌悪。押し寄せる様々な葛藤の中で、それでもやはり建築の設計をしていく日々。その時建築家が悩み、苦しみ、葛藤しながらも、それでも相当な知識と技術を持つ職能人としてこの設計に取り組み、それ以上に魂を傾けて今もっている自分の全てをぶつけて書き上げた一枚一枚の図面が目に浮かぶような建築であることは間違いない。

だからこそ、自分ならどうしていたか?どう設計していたか?と思わずにいられない。そしてこの空間が何が凄いのかと、自分の心に問いかけずにいられない。「情報」として与えられる工法やコンセプト、コストや機能の問題としての建物ではなく、一建築家が魂を傾けた建築空間として何を感じるか?

かつてコルビュジェの教会で風の音を聴いた女性の様に、自分もここで何かの音を聴くことができるか?そんなことを思いながら、ひんやりと静かな展示室に一人佇み、自分の心に耳を傾ける。

こういう作品を見た後に、それでも続けていく建築家という職業。これから何を感じ、何を思い、どう設計していくのか。長い長い旅路を思いながら展示室をあとにする。






















































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