2013年7月26日金曜日

大徳寺(だいとくじ) 1325 ★★★


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所在地 京都府京都市北区紫野大徳寺町
別称  左大寺(さだいじ)
山号  龍寶山
宗派  臨済宗大徳寺派
寺格  大本山
創建  1325
開基  宗峰妙超
機能  寺社
文化財 方丈、唐門(国宝)
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日本の建築空間 (孤篷庵 忘筌(ぼうせん)の間 1799)
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京都最終日。妻は昨日まですっかり京都は満足だというので、「今日は行きたいところへ行けば」と言う。それならば昨日まで予定から漏れてしまった中からぜひともというところをピックアップ。そして最初に向かったのがこの大徳寺(だいとくじ)。

言わずと知れた臨済宗大徳寺派の大本山。京都でも有数の規模を有する禅宗寺院と言われてもどうもぴんとこないが、実際に足を運んでみるとその規模はほとんど小さな街レベル。中心伽藍はもちろんだが、20を超える塔頭が境内に立ち並び端から端まで歩くと軽く20分ほどかかってしまう。

後醍醐天皇により保護を受け、一時は京都五山のさらに上位に位置づけるという動きも出たが、時代が流れ足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまったという。

その後、貴族、大名、商人、文化人など幅広い層からの保護や支持を受け、室町時代以降は一休宗純などの名僧を輩出する。その流れから「侘び茶」を創始する村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、茶の湯の世界を作り出す重要な場所となり、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもったという。

境内の三門は1589年に千利休が上層を完成させた。その恩に報いようと寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置する。その為に門を通るものは利休の足元をくぐるということになってしまい、これが時の天下人・豊臣秀吉の怒りを買い利休への切腹命令へとつながって行く曰くつきの三門。

多くの塔頭が立ち並ぶ境内を駐車場から一番遠い西の端まで歩いていく。途中境内を出てしまい、近所の中学校の運動場の脇を抜けていきながら、「この道であっているのだろうか?」と思いながらやっとたどり着くのが目的地の孤篷庵(こほうあん)。

何といっても小堀遠州が建立し、遠州作による茶室「忘筌(ぼうせん)」が境内にある塔頭の一つ。こんなに広い寺院で、これほどの塔頭が立ち並ぶとは思っていもいなかったので、てっきり参拝できるものだと思っていたがどうも雰囲気が違うようである。

門の外から中を覗いてみると、外に停めてあるスクーターでやってきたと思われるおじいさんがひょこひょこ戻ってくる。「あれ、やっぱり頼めば中に入れるのかな?」と淡い期待が湧き上がってくるが、「あかんあかん、見られへんて。なんかの雑誌で往復はがきを送れば見学できるって書いてあったんやけど、あかんて。そりゃ殺生やで」と京都弁丸出しで教えてくれる。

やはり一般公開はしていないらしく、残念に思っていると、「どっからきたん?」とおじいさん。なんでも中の良い名古屋在住の友人がちょくちょく京都を訪れに来て、その度に趣向を凝らしたところに連れていけというから既に300以上も京都の寺院を回っては、面白そうな話を仕入れているのだという。

一昨日から回った寺院を説明し、今日の予定を伝えると、「それやったら、あそこのお庭はええでぇ」とあれやこれやと教えてくれる。その話がまた凝っていて、「皇族もあっちこっちで子供仕込んで来てまうから、しょうがないから寺に入れるんやけど、普通の寺と一緒にするわけもいかんから、門跡つって特別扱いしよるわけやね。だけど金はもってはるんで、建築も庭園もまぁ綺麗やねぇ」などど、ついつい妻と二人して聞き入ってしまう。

「小堀遠州が見たかったんですけどねぇ」なんていうと、「ほなら・・・」と京都で小堀遠州作の庭園で選りすぐりのところを教えてくれる。「大覚寺の他のところは見はった?」というので、「いや、とりあえずここが見たかったので」というと、塔頭の中のどの寺院の庭園が見れて、どれが素晴らしいかを教えてくれる。

なるほどなるほどと参考にさしてもらい、とりあえず他の塔頭に戻る前に、「玉の輿」の語源になったという玉さんの話を教えてもらい、玉と縁深く銅像も置かれているという脇の今宮神社に寄っていく事にする。

これは朝からいい出会いがあったと一緒に記念撮影をし、お礼を言って境内に来た道を戻ることにする。

ちなみに今宮神社の後に再度大徳寺の境内に戻り、訪れた塔頭の一つ龍源院(りょうげんいん)。大仙院を本庵とする大徳寺北派に対して、南派の本庵とされているらしいが、1502年の創建で大徳寺の塔頭の中で一番古いという。何といっても方丈の4方を囲む提案は昭和の作庭の枯山水で、小ぶりだか上質な禅寺らしい風景を見せてくれる。

まずは滹沱底(こだてい)。狭い奥行きにも関わらず左と右端に置かれた「阿吽の石」と呼ばれる二つの石によって広い世界を表現する。宗祖・臨済禅師が住した中国・鎮州城の南を流れる滹沱河から名付けられた白砂の庭。

その次に体験するが、東滴壺(とうてきこ)。1960年の作庭だが、方丈と庫裏との間の小さな隙間空間に作られた壺庭。長方形の白砂の上に5つの石が3・2に分けられて空間の広がりを作り出す。

その次の一枝坦(いっしだん)は打って変わって奥行きの広い敷地に、丸い島のように繁った苔の中に石が立つ亀島が手前に控え、奥には高さを持った石が直接白砂より立ち上がり、空間に奥行きを与えている。

最後に巡るのが龍吟庭(りょうぎんてい)で方丈北側に広がる。先程とは打って変わって青々として繁った苔によって表現される大海原の中に、小さな石組みがなされている。

流石に東福寺の庭園ばりの贅沢さは無いが、四方それぞれに違った昭和の庭園設計の世界観を楽しむことができる。「これは朝からいいものをみたぞ・・・」と満足して門を出る。

境内を歩いていると塔頭の門のところに「参拝拒絶!」という看板がかかっているのを良く見かける。恐らく観光客が見れるものだと思い込んで、勝手に入ってきてしまうことが多くあり、それに対しての対策なのだと想像する。それでも場所によっては見学も可能なところもあるらしく、ぜひとも次回は時間をとって、事前調査を良く行い足を運んでみたいものである。

ちなみに他の塔頭は以下のよう。

黒田長政によって建立された龍光院。ここにある茶室「密庵(みったん)」な国宝に指定されており、京都山崎妙喜庵内の待庵(たいあん)、愛知犬山有楽苑の如庵とともに、現存する「国宝三名席」の1つに数えられているという。

細川氏ゆかりの高桐院。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。他にも、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓だけで構成された方丈の南庭が有名。


一休宗純ゆかりの寺院である真珠庵。村田珠光作と伝わる庭園や、長谷川等伯の障壁画も有名。











滹沱底(こだてい)


東滴壺(とうてきこ)
一枝坦(いっしだん)




龍吟庭(りょうぎんてい)




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