2016年2月12日金曜日

宿のクオリティ

数日間、違う温泉地で、異なるタイプの宿泊施設に泊まってみると、それぞれの宿が何に重きを置いているのか、どこまで細かく気を配って接客をしているのか、もしくは商売っ気たっぷりにできるだけコストカットをし、それがサービスの質として出てしまっているのかが見えていないのかなどなど、様々なところを比較することができ、それぞれのサービスが価格に適しているのかどうか判断できることになる。

例えば、昨今の隣国から押し寄せる空気汚染に対応してのことだと思うが、旅館の各部屋に設置された空気洗浄機。もちろんこれもある意味現代における宿側の気配りであり、ありがたいことは間違いなのだが、その音がゴゥゴゥ鳴り響き、静かな宿での時間は見事に壊されることになる。

またこの空気洗浄機。ピカピカと青色に光ったり赤色に光ったりと、吸い込んでいる汚染物質の量によって自らのパフォーマンスを知らせてくれようとしているのだろうが、日常のリビングにあるならまだしも、こうして非日常の旅館に来て、夜寝ようと思っても視界の端でチカチカと光り続けるのはなんとしたものか。

恐らくこうしたことは宿側にとっては、日常の風景であるから気がつくのは難しく、そうなると客側の視点を踏まえて選ぶ機器を選択していくかというところまで気を回すのは、そうとうなレベルということになってしまう。宿のメンバーが客としてどこかで宿泊し、そのときにどんなサービスが心地よく、どんなサービスが過剰であり、どのようにして自らの宿泊施設に取り入れることができるか?そんな不断の努力を積み重ねていくしか、変化の激しい現代社会においては「サービスの質」を向上ではなく維持していくことすら難しい。そしてそこにどれだけ投資をすることができるか。

本日宿泊するのは阿蘇に向かい奥まったところにある温泉街、湯平温泉。その中でも随分おくに位置する旅館に宿泊したのだが、部屋数もスタッフで無理の無いように対処できるだけに留めておいて、自分たちが思う心地よいサービスを提供することができるようなシステムをどうやって作ることができるか。それをじっくりと考え込んだということがひしひしと感じることができる非常に気持ちの良い宿である。

それに比べ昨日宿泊したのは中津市の八面山金色温泉の宿。こちらはコストカットの影響なのか、全体的な商業主義の雰囲気は漂うにもかかわらず、全体的に手と視線が届ききっていないのが見てとれ、数度受付にいっても誰もおらず、頼んだものも部屋には届かず、食堂に食事にいっても係りの人はバックヤードから出てこず、食事の説明を頼むと厨房まで聞きに戻る始末。恐らく地元のパートのおばさん中心に運営が賄われており、正社員でないから宿泊客に快適な時間を過ごすためのサービスを教え込むための教育にも時間がかけられていないのが感じ取れる。

それならばこの二つの宿の価格が違うはずであるのだろうが、そういう訳ではない。そう考えると、湯平温泉の宿の経営努力は素晴らしいものだと思わずにいられないし、また何かの機会で宿泊する機会があるのなら間違いなく湯平温泉を選ぶであろう。

これは高級だからとか、大衆向けだからとか、働く人の質の問題だとかそういうことなのかと、そんなことを思いながらこれは建築の設計の現場でも同じであり、例えば、アマンや星野やの様な快適なサービスを提供することに対して高額な対価を貰うような宿があり、そういう場所で、客の要望を深く考え、一挙手一投足まで考えてサービスを提供し、それに対して喜びを感じるような若者が多くこぞってその様な高級志向のホテル産業へと就職をしていく。もちろん彼らは熱意を持っているから向上心も高く、学ぶことを繰り返して元々高い意識を持っていたのを更に高めていくことになる。

それに対して、最低限のサービスを提供し、安い宿泊料を売りにする施設では、ただただ給料の為に働き、そこでの喜びや自らの向上などはまったく気にせず、与えられた仕事を与えられた時間だけ行い、クビにならないようにこなして毎日を繰り返す。そんなスタッフが集まってくる。

これは異なるニーズをもつ宿泊客がいる限り、それに対応するバラエティをハード側が持つために必然なのであるが、今回のポイントはどの宿もいわゆる同じ価格帯であるにも関わらず、その実は酷い差があるということ。そしてその差はネットで見た限りでは見破ることはできず、そして恐らく一見の客が満足してリピーターとなるよりも、地元の客が気楽にこられるような場所にしていたほうがビジネス的にも都合がいいということなのだろう。

外からの見てくれは非常に良いが、クオリティという意味では大きな差があり、快適さという部分では比べ物にならない。そしてその質というのは、いくら一人ががんばったところで保てるものや達することのできるものではなく、そこで働く一人ひとりの意識の奥まで何を求めるのかが浸透して、付け焼刃ではなく長い時間の末ににじみ出てくるのものであろう。

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