2016年2月4日木曜日

浄土寺(じょうどじ) 1194 ★★★


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所在地 兵庫県小野市浄谷町
山号  極楽山
宗派  高野山真言宗
創建  建久年間(1190年~1198年)
開基  重源
機能  寺社
国宝  浄土堂
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日本の建築空間掲載
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神戸を離れて今度は内陸に位置する小野市へと車を飛ばす。たった一つの目的地のために、往復数時間をかけることが、この寺院の境内にある建物の建築史的な重要性を物語る。

神戸とは打って変わってガランと開けた土地に広々と用意された駐車場。車を停めて徒歩にて境内に向かうと、案内板が見てくる。一段高くなった境内にあがると目の前に目的の建物である浄土堂がいきなり視界に飛び込んでくる。なんともそっけないその表情。

ぐるりと境内をまわり、東に浄土堂と対を成すようにして鎮座する薬師堂を巡り、再度浄土堂の前に。池を挟んで西に浄土、東に薬師如来というのは、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来と西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の居所を意味してのことだという。

どうやら中に入っていいのだと理解し、脇の入り口から中に入ると住職さんがおり、拝観料を納めて中央に安置された阿弥陀三尊像を見物する。お堂の中に響く、CDで再生される機械的な説明。空間の中には自分と住職さんと阿弥陀三尊像。境内の西に立つこのお堂の真ん中で、東に向かって立つ像の後ろに位置する朱赤に塗られた蔀戸(しとみど)からは、徐々に暮れていく西日が徐々に境内を赤く染め上げていく。

説明を聞いていると、この建物がどのような由来で、またどうしてこれほどに高い評価を得ているのかが良くわかる。まずはなんといっても仏像と建物が一体として設計された空間であるということ。

東大寺の再建に尽力した平安時代の僧である重源。中国の宋に何度も渡り、当時最先端であった大陸のさまざまな技術を学び戻ってきた彼は、平重衡の軍勢によって焼き払われた東大寺の大仏・大仏殿の再興に先立って、その事業の拠点となる東大寺「別所」を各地に定める。伊賀(三重県)や周防(山口県)とともに、7つの別所のうちの一つとして選ばれたのが、この播磨国の浄土寺という訳である。

その為に重源が大陸で学んできた様式を採用してこの地の建物が建設され、その様式とは大仏様(だいぶつよう)または、天竺様(てんじくよう)と呼ばれ、貫(ぬき)を使い構造を強化したり、天井を張ることなく、屋根の構造をそのまま露出して見せるなどの特徴を持っており、重源が手がけた大仏様建築で現存するものは東大寺南大門と同寺開山堂のとこの浄土堂だけとなっている。

堂の平面は方三間と呼ばれ、正面・側面ともに1辺に柱が4本立ち、つまり柱間が3つとなる構成で、それぞれの柱間が約6メートル。そして屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)で四角錐状となっている、非常にシンプルなつくりである。外部に見えてくる屋根のつくる輪郭線に反りなどはもうけられておらず、ほぼ直線とされ、なんともストイックな表情を見せている。その表情をよりミニマルにするために、瓦の縁の下に位置する垂木の先端の端に「鼻隠し」という板材をつけることによって、個別の材の表情を消している徹底ぶり。

一目見ただけではその素晴らしさが分かりにくいが、こうして説明を聞き、時代背景に思いをはせ、太陽の動きとともに表情を変えるお堂の内部にて仏像と向き合うことによって徐々にその空間の本質が見えてくるとともに、ここを拠点として重源がその先に見据えていた大仏殿の再建のイメージを発展させていったということがよく理解できる見事な建物である。















薬師堂

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