本人が「分析の役に立ったとしても、それがそのまま創作の方法とはならない」と書くように、建築というものは、数々の歴史の中の建築作品を分析し、それが何をして美しく、何をもって社会にとって意味のある建築物として残されてきたかを理解することはとても重要であるが、その理解をした建築家全てが、同様に素晴らしい建築作品を作れるかというとそうではない。
つまり、数々の建築物の良さを建築学というアカデミックな視点、そして一般の人が体験する空間としての視点から解説し、より深くそれらの建築物の良さを伝えることができるのと、その系譜に並ぶような素晴らしい建築作品、建築空間を設計できることとはまったく違う才能である。
そして作者は、前者の建築の魅力を伝えることに関しては間違いなく日本でトップレベルの知識と経験と、それを言葉にする能力をもっていると改めて思わされる一冊。放送大学用のテキストという、専門分野以外の人を意識し、より一般的な表現を使いながら建築を語る中でその能力はより磨かれたのかと勝手に想像するが、根源的な建築の魅力を解説する素晴らしい言葉達に出会えることになる。
そして上記のように、建築を理解し解説できることが、そのまま素晴らしい建築を設計できることにならないように、いくつか訪れてきた作者の建築作品も、この本で語られるようなキラキラした建築言語とはどうにも乖離しているように思えてしまうのは自分だけではないと思うが・・・
兎にも角にも、日本の建築アカデミズムの真ん中を歩き続けた正統なプロフェッサー・アーキテクトによる建築史を横断し、建築の持つ魅力を各部から解説していただける一冊。その中には、下記のように「明日も建築をやっていこう」と思わせてくれるような素晴らしい言葉や、耳が痛くなるような激励の言葉が盛りだくさんである。
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スケッチを作り、スケッチする事によって問いかけ問い直しのである
日常とは、数多くの約束や目的あるいは習慣によって成立している世界の事である。建築は、これらの制約を受け入れた上で始めて成り立つ。それだけではない。建築は、大空の下、大地の上に建たねばならぬ。雨風や地震に抗い、重力を支えて、建築は立ち上がらねばならない。
建築は技術。明治以降の近代化の課程で、西欧の工学の一分野として、近代の建築学を受け入れた日本においては、とりわけそういう見方が一般的である。建築において、芸術と技術を分けることは不可能である。分けたとしたら、その瞬間に建築は死ぬ。
フランスの小説家・ゴーチェの言葉
「何の役にも立たないものに、真の美がある。有用なものは全て醜い。なぜなら、必要は人間の本性と同じく、貧弱で、下劣で、厭わしいものだからだ。」
アメリカの哲学者 ジョン・デューイ「経験としての芸術」より
「建築は存在の安定と持続を表現するに最も適したものです。音楽が海なら、建築は山である。」
建築家は共同体に形を与える
私は、空間に包まれている。
外から眺められるだけでは、建築とはいえない。それでは、彫刻と同じだ。建築はその内に人を包み込むもので無ければならない。
空間とは何か
自分を包むもの。自分を包んでくれる囲い
ミルチャ・エリアーデ「家は世界の模型である。」
ルイス・カーン「部屋、建築はひとつの部屋を作る事に始まる」
閉鎖的な高い塀「日本の住居が閉鎖的でまったく中の生活が見えない」
ミース ガラスの家 開放的空間の純粋的な実現
ある部分の開放性は他の部分の閉鎖性で補わられている
華やかに人目を引いている建物でも、その空間があなたを優しく、暖かく包み、そしてあなたがそこにとどまっていたいと感じられないものであったら、それは良い建築ではない、と言い切ることにしよう。自分の空間を、しっかりと持っている人は、そこから出て外と繋がる事ができる。それが無い人は、外と繋がっていくことが難しい。
良き建築は、常に大地を讃えるものでなければならない。
平凡な地形。それが、建築郡と、そこで続けられている意図の営みによって、まったく特別なものとなる。それが建築の力である。
人間が、自然と深く関わりながら生き、それに対する畏敬の念を失っていなかった時代に建てられた建築は、全てこのように大地を賛美しており、その姿を見る私達の心は喜ぶ
建てられる場所の特性を、豊かに感じ取り、正しく理解せねばならない。そのような感性を、原始・古代の人々が豊かに持っていたこと 残された遺跡や遺構は私達に教えてくれる
場所にそれぞれの「霊(アニマ」がある
今日の日本の大都市とその周辺の敷地は、画一的に開発されてしまって、それぞれの特徴を見出すことは、極めて難しい
フランク・ロイド・ライト
「私に良い敷地を与えてくれるなら、私はあなたに良い住宅を与えよう」
「そこが美しい敷地だったことは、その家が建てられるまで誰も気がつかなかった」
「建築は、場所の特性を視覚化する」
建築を作り出す決定的な力を、屋根が持っている。従って屋根とは、内に包んでいる良きまとまりを、外に向かって表現するものとならねばならない。屋根は、内なる空間を外なる大空に向かって表現するのだ。
谷崎潤一郎「外から見て最も目立つのは、或る場所には瓦葺、或る場合には茅葺の大きな屋根と、その庇の下にただよう濃い闇である」
建物の内部に会衆を呼び集めるものとして、教会堂は誕生した
神社、初期の仏寺 内に入ることが出来る人は限られていて
門をくぐる時、私達の心は躍る。門のかたちは、そのような力を持っているものだ。緊張させ、逡巡させ、立ち止まらせる。門の意味は、入れてもらえる人もあれば、入れてもらえない人もあるという。入れてもらえない人もある門に、自分は入れてもらえたからこそ嬉しいのだ。
都市が門を持っている。内には法律と秩序 外には無法、無秩序。
エリアーデ「門とは秩序の支配する空間と、無秩序の支配する空間との境」
細長い奥行きを持った門。門は準備の場所。宗教建築。長い参道は、心を整えるための空間
豊かな内部空間を持った建築は必ず見事な門・入口を持っている。
窓は建築の目。窓の持つ多様なかたちと、それが生み出す豊かな働きついて見ることは、建築の与えてくれる最も大きな喜びの一つです。
窓は、望ましい景色に向かって開かれる
様々なものが窓を出入りする。光、風、視線だけでなく、時には小鳥や蝶や木の葉も出入りするかもしれない。
建築家が、はっきりとした意図で、この景色をこの位置からこの方向で見てくださいと考えて作られた窓もある。
様々な外と内との繋がりを多様に、そして適切に制御するために、様々な形の窓がつくられる
ロンシャンの教会堂 彫塑的造形 奥行きの深い窓から射す光 ロマネスクの窓 更に古代ローマの建築の光
空間は、自分から発し四方に広がっている。必ず中心を持って成立している。良きまとまりには中心がある。
プリンモア女子大学の学生寮。分棟型から中心型へ移っていく空間生成。何故、学生は学生寮に住むのだろう。大学の寮で共に暮らすことと、街のアパートでそれぞれに住むことの違いはどこにあるのだろう。その問い直しの結果、食堂・居間・図書室のまわりに、個室郡は集中する。
アルベルティが「都市は大きな住居であり、住居は小さな都市である」
力を支えて立つ柱が美しいこと。柱は人の心に働きかける根源的な力を持つ。
空間のうちと外を区切るための重要な空間要素。守られ、安全と安定があるからこそ、人は、外とつながることができる。我が国において、都市を囲む城壁が築かれることはなかった。自邸を囲った 。
ロバート・ヴェンチューリ「建築において、壁は、常に、少なくとも、二枚重なっている」
良い部屋には必ず良き日の光がある。
あなたの忘れられない光はどのようなもの
構造体は光を与え、光は空間を作る
光の濃淡、陰影、差し込む光の位置と強弱、そして反射や透過を、自分の思うようなものとするために、壁や柱や屋根を造形することが建築の設計なのだ。光と影を描くことによって、空間を描くことを学んでいく
自然の景色は、南都心慰められる安らかな 人間がそのように美しくつくるためには、どうすればいいのか?
むき出しの生身で自然に対していた太古の人々は、そう簡単に、自然這うt区しいなどと甘いことを言うな、と言うに違いない
美しい自然がある、人間はそれを美しいと思う
なぜ、「なぜ」と人は問うのか それはつくりたいからだ。美しいものを作る方法を見出したい身体。
ウィトルウイウスは紀元前後 最古の「建築書」 「美は、建築の寸法が正しいシュンメトリアの理法に従っている場合に得られる」
シュンメトリア 「建築の各部分と全体の間に、一定の比例関係が成立すること」
シンメトリーの語源
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[目次]
第一章 建築はいつも私達と共にある
第二章 空間は私を包む
第三章 大地に根ざして立つ
第四章 大空の下に立つ
第五章 門は招き、あるいは拒む
第六章 窓は建築の目
第七章 空間には中心がある
第八章 支える柱
第九章 囲む壁
第十章 空間をつくる光
第十一章 自然と人工
第十二章 建築を見る楽しさ、作る喜び
私の作品
あとがき
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