2014年3月27日木曜日

誰かを責めるよりは

「建築」を生業にしていても、その仕事内容は非常にマチマチである。ある建築家は個人住宅だけを設計し、またある建築家はリノベーションなどの改修物件ばかりを手掛ける。またある建築家はマーケティングが幅を利かせる効率重視の商業施設を専門とし、またある人は街のイメージとなるような文化施設を手掛けたりする。

さらにその中でも、例えば個人住宅と言えども、億を超えるような予算を与えられ、減額設計に頭を悩ませなくてもよい経済的に恵まれた施主の物件ばかりを手掛ける事務所もあれば、ぎりぎりの予算だけどもなんとか少しでも広く、少しでも機能的なものをと一生に一度の大きな買い物に必死になって建築家を頼りにする家族のための住宅もあるだろう。

人は誰でも自分を肯定しなければ生きていけない生き物である以上、建築家もまた現在、自分がおかれた立場、向き合っている仕事内容を肯定していかなければやっていけない職業である。

建築を学び始めた学生時代。手にした雑誌で目にする世界の建築。新しい建築の可能性に挑戦するプロジェクトから、繊細な素材の使い方とディテールで緊張感のある空間を作り出すプロジェクト。周囲の自然環境の中に溶け込むような心地よい空間から、毎日の日常を楽しい舞台に変えてくれるようなプロジェクトまで。

そんな建築の可能性に惹かれ費やした青春時代。その過程で徐々に理解する建築世界の現実。そしてその幅の広さ。建築の世界で生きていくのが如何に厳しいことかを理解し、果てることのない激しい競争社会の中で設計を糧にして生きていくことの厳しさを感じていきながら、徐々に望むこととできることの着地点を自分の中で見つけていく。

自分がやっていることが、自分がやりたかったことではなくても、それでも建築という世界の中で、設計という枠組みの中で、それでも専門家として誇りを持ちながら、プライドを保ちながら、これなら負けないという自分の武器を磨きながら日常を生きることになる。

しかし、情報のあふれる現代社会。誰もが自己アピールに多くの時間を費やさなければいけない社会の中で、ふと目にするSNSやDezeenなどの建築系ニュースサイトでは、どこかの事務所の新しい作品が、如何にも派手にページを飾っているのを見かけることになる。

自分が行っている日常に、心の底で納得していなければいないほど、そういうものを見てしまうとついつい何かを言いたくなるのが人の性。

僻む、嫉妬、妬み、羨み、侮辱、蔑み。様々な形をとって現われてくる自らの心の形。「あそこの事務所は建築の本質ではなく、コマーシャルな金儲けの為のプロジェクトばかりやって・・・」、「あそこは派手な事ばかり目指して建築をやっていない」、「形ばかりを追い求め、建築の事を分かっていない。ディテールさえかけない」などなど。

それが、自らの心の鏡であり、自らの置かれた状況への写し絵であることを理解し、そして同時にそれがどれだけ醜いものかも分かるほどの社会的認識力はあるからこそ、直接的な表現は避け、「自分は分かっています」と言わんばかりの意味深な表現が横行する。

信念を持って設計活動に向かう建築家という職業。自分の信念の肯定は、程度の差こそあれ、他人のものの否定につながるのは当然のこと。それならば、堂々と批判してやればいい。ドーナツ化現象のように、一部の上げ足をとるようなことでなく、堂々と土俵に上がって「あの建築のどこがダメだ」と言ってやればいいと思う。

どんなに賢くとも、その人が設計したものが素晴らしいとは限らないのが建築の魅力でもある訳で、だからこそ建築家が多くを語らなくともその作品が雄弁にその魅力を語ることは多くある。本来建築なんて言うものは、そういう直接的な体験であるはずで、そこに現れないものを言い訳がましく言説で賄おうとするのは潔さに欠ける行為であろう。

そんなことを考えていくと、やはり建築家ならば、好きな建築、嫌いな建築をはっきりとさせながらも、しっかりと自分が設計として携わる建築物事態がしっかりと物語を語れるような濃密な設計をするのが一番の表現方法なのだと改めて理解することになる。

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