「ごちそうさん」のあるシーンにて、関東大震災で被災してきた人が主人公の炊き出しの料理にお礼を言うシーンで言った言葉。
毎日違う味噌汁を作ってくれて、朝食べたら、昼は何かな?と楽しみになり。昼を食べたら夜は何かな?と楽しみとなり。夜を食べたら、明日は何かな?と楽しみになる。そんな風にあっという間に時間が過ぎていった。あなたの料理から明日への希望、生きる喜びを貰った。ごちそうさん。
何とも良いシーンだと思う。
このドラマ。大正の終わりから昭和のはじめ。今の様に便利ではないが、皆実に幸福そうに生活をしている姿が描かれる。もちろん現代の様に「移動」が容易ではなく、「家族」単位が強く残っていた時代だけに、登場人物も決して多くはない。
そういう姿を見ていると、人が幸せで生きていくには何百人もの「知り合い」は必要ないんだと再確認する。本当は深く繋がっている「家族」と「友人」がいればいい。徐々に熱を失い始めたSNSのようなサーフェイスの関係性はその利点があるが、一人の人間が幸福な人生を送る上には、本来はそんなに多くない人間関係の中でできることだと痛感する。
決まりきった「いいね」を期待する表面的な関係よりも、ずけずけと心の中まで入り込んでくるが、しっかり自分の言葉で話しかけてくる人生の登場人物に囲まれて暮らしたいものだと思う。
「ドッグヴィル」の様に、決して自分に都合の良いばかりの関係ばかりではないだろうが、それでも限りなく薄くなり、あるのか無いのか分からないような薄膜の様な人間関係よりかは、こってりと濃厚でどこまでもまとわりついてくるような関係性の方が好ましいと思う。
そんな中で思うのは、その少ない登場人物がそれぞれの特性に合わせてしっかりと役割を分担していると言う事。もちろん女性と男性の役割もしっかりと見えていた時代である。
それで不幸せか?と考えるが、決してそれが不公平とかじゃなく、それぞれがそれぞれの役割を尊敬しあって成立しているかのようである。
今の様に様々な家事がボタン一つで洗濯も掃除も炊飯もあっという間に出来るような時代ではなく、家族が生きていく為に今よりも膨大な手間がかかった時代。その家族がそれぞれの家の外、社会の中でしっかりと役割を果たし、学生は学生らしく学び、一家の大黒柱は家族を養う為に働き社会に奉仕し、年寄りは子供の世話を見ながら元気に暮らす。
そんなことが可能をする為には、生きていく日々の様々なサポートが必要となり、それを下支えする主婦の姿があった時代。毎日毎日、家の誰よりも忙しく家事に追われる彼女達に、薪を割らずに良くしてくれたガスの登場、洗濯板を使って冷たい水に手を入れずにすむ洗濯機の登場、雑巾での床磨きをせずによくなった掃除機の登場、炊き具合をいちいちチェックしなくてよい炊飯器の登場はどれだけ価値を持ったものだったろうか。
その全ての進歩は、家事からの解放をなし、多くの時間を与えてくれたに違いない。当時の主婦が今の時代に現れたら、どれだけ有り余った時間を羨ましがるのだろうかは想像に難くない。
女性の社会進出が進むと同時に、技術の進歩によって家事の意味が大きく変わってきた現代。そういう時代だからこそ、それぞれの人生におけるそれぞれの役割の意味もまた変わってきているのだろうと思わずにいられない。
0 件のコメント:
コメントを投稿