2012年3月31日土曜日

酒田市美術館 池原義郎 1997 ★★★★★















中国に行く前にせっかくだからと、妻のご両親が山形へのバス旅行を企画してくれた。

というのも、ブログをこまめに見てくれていて、「なんとか中国に行く前に酒田市美術館を見てみたい」というコメントをチェックしてくれていたという。なんともありがたい。

関東から新潟を抜けての山形入りで結構盛りだくさんの内容なので、抜ける時間があるか心配だったが、初日にちょっと早めに宿泊地の鶴岡に着いたのをいいことに、夕食までの束の間に急いでタクシーをよんで酒田市へ飛ばしてもらう。

国体で整備されたという文教地域のゆったりとした一体の中を走っていくと、遠くに土門拳記念館が見えてくるが、両方ゆっくり見る時間は残されていないので、秤にかけると圧倒的な重量をもって池原建築に軍配が上がる。

とことん壁を面に、柱を線分に還元して、建築が一つ一つのモノの集合体であり、その一つ一つのモノの関係性によって、総体としての空間の質が決定されることを端的に示す素晴らしい作品。建築が重力に対する人的な構築物としての力の流れの構成であるならば、その一つ一つの力がエレガントな建築のエレメントとして立体的に配置される。

すべてのコーナー、二つ以上の素材がぶつかる境界、それらは決して無粋な一枚の壁としての表現は取られず、あるモノが別のモノに触れる時に、人の肌がどのようにその面に触れるかを想起させるようなやさしい感触に。モノには凹凸があり感触があるということを受け入れることを強要する力強さ。

ゲニウスロキの存在を納得させるような場の力を建築というフィルターがどのように顕在化させるかは、何を見たいと臨むかの問題で、それは同時に何を見せたいかの問題として構成の問題に置き換えられ、視界の中にどう面を配置するかという建築家の力量に左右される。その操作は内外を超えて、外部空間にも当然のように現れる。

コンクリートが元は液体であるならば、一時期的に固定されて現在の形に表れる凹凸は、液体を囲いこんだ器の形。その形に隠された、今が現存しない固定化された液体の形をいかに作り手のとしての職人と共に見るか、そしてその一つ一つの作る手間が良質なモノへの消化過程だと関係者を説き伏せる能力と情熱。建築の規模が大きく、公的な機能になればなるほどこの作業は困難を極め、着地点という妥協がなされたかどうかはモノの強度が雄弁に語るだけに、この空間の過程に隠された建築家と関係者の信念に脱帽する。

空間の接合は穴ではなく、かならず意味を持った仕掛けを通して行われる。コンクリートの厚さと対比される鉄板の薄さ。通路も開口の一つとして何と何を繋ぐのか、その一転によって処理の意味を与えられる。

彫刻展示室の天井面に天窓を採用するために、鉄骨の正方グリッドトラスが採用され、その要素が全面的に内部外部に繰り返し現れ、全体を通したアイコンとして採用される。静謐な空間に現れる不条理ともいえる異物のデザインではあるが、それが空間に活気を与え、素材を変えても繰り返されることで自然と同様なある種の力を纏うこととなる。

トラス架構

面が切り刻まれ、飛ばされて、なおかつギリギリの緊張感を保ちながら、そこに存在したかつての面の痕跡を残す。それはまるで何百年も前に存在した遺跡の様に。

広大な自然の中に挿入されたかの様な建築は、一枚の面を沿うようにして空間が膨張する。建築内部を歩くことは、つまり自然の中を歩くことと同義になる。それを可能にする為に建築とボリュームとして扱わない徹底した面の処理。浅蔵五十吉美術館のアプローチに設置された水面を眺める為のニッチと同様に、建築内部に外部に飛び出すニッチ・スペースが設けられ、四季折々の自然の下に放り出される。

扉というのは密閉や視線を遮るだけではなく、セキュリティーのみの場合も考えられ、どんな時も思考停止で同じ硬い閉じられた扉ではなく、軽く大きく空気の流れる扉もデザインすることの大切さあるんだと言う、全てをデザインする頑なな意志。機能を担保しするのは最低限のスタートラインで、その上で予算と技術の裏づけをもって以下に現代だから可能な表現を創り出すか、それは当たり前のものを疑う意志でもある。

この配置は遠くに見える鳥海山をいかに借景するか それによって決まっている。庭に開けた喫茶モンマルトは外部レベルよりやや低く設定され、窓際に座ると、目の前に芝生が広がりその先に察知された彫刻作品とオーバーラップするような鳥海山。それは、この場所に始めた立った建築家の眼が捕らえた景色であり、その景色を人の力を使うことで、以下により美しくできるかと想像力の中で浮かんでいた風景でもあるだろう。

アプローチのキャノピーを支えるのは、重力の流れを表現するような華奢な鉄骨柱。足元がキュッツと細められた十字柱と決して直接下からは支えず、サイドによけてスッと落ちる二つの支柱。人の動線は最小限しか遮らず、尚且つその場に存在する物理的力の存在を暗喩し、空間に緊張感を持たせ、これから特別な空間に入り込んでいくというアプローチならではの操作。

視線の操作への意志を感じさせる塀の切り込みと、その塀の上部の処理と雨水の排水ディテール。なにげない一つのエレメントたちではあるが、これが建築を美しく生きながらえさせる大きな力になり、必要なものだからと機能的処理だけにとどまることは許さず、爪先一つかもしれないが、徹底的にしてデザインしようとする意志。それは、足元の植栽との淵の処理にも通じ、その場を訪れた人がどう動いて、何を感じるかというシナリオをどれだけ多くその建築家が考えたか、歩くときの風景にどの高さの木がどの場所に必要かどれだけ建築家がその想像力の中で風景を描いたか、頭の中と実際の机の上で描かれたスケッチと図面の数と同じ数だけ、そこに訪れる人々に感動がもたらされる。

空間が長さと高さそして幅という根源的な意味に置き換えられることによって、空間は限りなく自然の体験に近づくのではあるが、収束して限りなくゼロに向かうのではあるが、決してゼロにはならない緊張感をもたらすのは、そこに至極の人的操作がなされるからであり、決して自然ではなし得ない上位の空間体験が現れることを教えてくれる。それはつまりは人類が存在するだけの時間続いてきた建築の力の証明。

建築史における100人を挙げろと言われたら、自信を持って池原義郎の名前を挙げるだろうと確信できる作品である。

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