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所在地 茨城県つくば市
設計 菊竹清訓
竣工 1976
機能 公園展望塔施設
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前回から随分時間が空いてしまったが、年明け初の建築ツアーということで、向かった先はつくば市。うっすらと記憶にあるのは1985年の科学万博。万博の時代。団塊世代が大阪万博で感じたような未来は無かったかも知れないが、父親に連れられて訪れた記憶はそれでも今も残っている。
さてその科学万博。なぜつくばだったのかというと、1969年代から検討された首都機能移転先として、すったもんだの末に、東京から近いなどなどの理由を元に、有事の際に首都機能をスムースに移転できるようにと筑波研究学園都市と定められ、その知名度を高め民間企業の誘致につながるようにという、極めて政治的判断の元で国際科学技術博覧会が1985年に開催される。
その1985を前後し、国家プロジェクトとして大規模な都市計画が施され、バブル絶頂期も手伝って、1970年の大阪万博に次いで国内トップレベルの建築家達が腕を振るう機会をもたらした。
特に中心を平行して走る、東大通り、西大通りの間の地域はつくばエクスプレス線つくば駅を中心にして、左右対称形を成し、歩車分離を原則にし、ランドマークとなる建築群が建ち並ぶ。南北軸の北には筑波山が聳え、南には日本有数の軍事の街・阿見がひかえる。何があっても自衛隊と連携した米軍が守りきるという、当時想定された有事の姿が見え隠れしなくもない。
その地中には共同溝が整備され、福井晴敏が当時の作家であれば、台場でなくてこここそが「Op.ローズダスト」の絶好のターゲットになっていただろうと思わずにいられない。その代わりにエヴァンゲリオンで戦略自衛隊技術研究が想定されたというのも、街づくりの背景を知ってみると現実味を帯びてくる。
そんないわくありげな建築郡達の先駆けとして、まずは中心軸が発展していく様を見渡せる展望台を作って、それをこの町のランドマークとしよう!という感じでプロジェクトが立ち上がったのではと思わずにいられない、中心軸の北端に位置する松見公園に聳える45mの展望台;松見タワー。菊竹清訓のキャリアの丁度中ごろの作品ということになる。
基本的に日本のタワー建築に、なかなかよいプロポーションを持った建築はないと思うが、その中でもやはり日本のタワー・トップ5に入ってくる美しい形態。基本的に展望フロアまでエレベーターで上がって、学園都市から筑波山のパノラマを眺めるという以外何もないという、今では考えられない機能設定のために、ランドマークとしての「か・かた・かたち」が大きなテーマとなっていたのであろう。
軸線上に建つタワーとして、南面と北面をどう扱うか、そして4面性を持つことに対して、東西面をどう異化させるか。加えて科学万博として、日本の技術を世界にアピールすべく、鉄筋コンクリート造での新しい形態への挑戦をどう表現するか。
それに対して金閣かと思うほどの濁った水面への映り込みと水平と垂直へのプロポーションへの執念。大きな軸線に対しては対称性を持たせ、公園の中というこもあり、足元ではしっかりと雁行させて小さなタワーと湧き出る水で自然の非対称性へと繋げていく。そして凹凸のある水面と床面でしっかりと時間が刻まれる。
1976年だから、まだバブルの夜明け前。手触りの感じられる自信ありげな姿に少なくない高揚感を感じながら、軸線を南に歩を進める。
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