どんなに歳を重ねても変化を手なずけるのは大変なことに変わりなく、
その時々の人生の立ち位置に合わせた苦労を消化しながら、
それでもその場所で生きていくことが必要だと感じるのが引越し。
身体だけでなく身の回りの物や様々なしがらみすらも断捨離して、
かつての自分の日常の香り漂う北京で新しい日常の一歩を踏み出し、
見えてくる風景の中で浮かび上がるのはつい数日までまで見ていた日本の日常との差異。
どちらが良くて、どちらが悪いとは一点透視法的には言えないが、
確実に言えるのはこの国に居ると単純なことが実はすごく単純なんだと気がつく。
それは
「生きることはそんなに難しくない」
ということ。
家電を買いに量販店に足を運べば、ディスプレイの奥で楽しそうに話をしている3人のおばちゃん店員。その中の一人が溢れんばかりの笑顔で進めてくる商品。その横では、ふらっと寄った感じの友達と、更に話を弾めている残りの店員。
道路清掃の自転車を停車して、仲間と大きな碁盤で勝負にふけるおじさんや走り回る子供の相手ですっかり自分もはしゃいでるスーパーの店員のおばさんとそれを如何にも楽しそうに笑顔で見つめる他の店員たち。
いったいこれで仕事になっているのか・・・と心配になるけれど、それでも彼らも給料をもらって、それでしっかりと自分と家族の生活を支えているんだと思うと、決して多くは無いかもしれないけれど、それでもその額で成立する生活がここにあり、それが裕福な生活をする人と並立して成り立っているのがこの都市の魅力なんだと再確認する。
この仕事がクビになれば・・・
今月の給料が手に入らないと・・・
このままでこの先やっていけるのだろうか・・・
将来への不安に追いやられるように今の決断をしなければいけない状況の覆われた日本。
それを閉塞感と呼ぶのかもしれないけれど、孤独死とカテゴライズされて生きることに苦しみながら生を終えていく人々。
それはきっと生きることの幅が非常に限れているからに違いなく、こうでなければいけないと思っていることが、本当にそうでなければいけないかすら自問することすら許されないある種のメディアによる植え付け。
このラインを下回る生活レベルならこのエリアには住めない。そんな風に経済レベルが地図をトレースする日本に比べて、この国では同じエリアに貧富がマダラに共存しえる。それを可能にするのは他人を羨みはするだろうが、あくまでも自分の分相応な立ち居地を把握する潔さと、自分は自分というとことんの個人主義。
苦しむことを享受するのが美徳な時代はとうの昔に過ぎ去っているならば、多様性の時代に突入しているのなら、もう一度日本の都市にもマダラ模様の生活が染み出るようになっても良いのではと思わされる二度目の北京の二日目。
生きることは難しくないと思えることから、次こそは生きることは楽しいと思うこと。
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