年内最後の節気である冬至。
中国ではこの日に餃子を食べる風習があるのだが、日本ではやはりゆず湯だろう。
年末に向けて「帝都物語」など読んでいるもので、荒俣宏風に言えば、何といっても東京にとっての冬至は、明治天皇が眠られる明治神宮の参道である表参道が、冬至の日の出の位置に当たることだろう。それは、一番太陽の力が弱まり、再度力が増大するという冬至に、亡くなられた後の復活を暗喩するという解釈。
そんなことを想いながら、妻に頼んで買っていてもらったゆずを風呂に浮かべて身体をほぐす。
たった一つのゆずが浮かぶ浴槽を見ながら、普段と微妙な違いしかないのに、ぞれでも豊かになる気分とは何だろうと考える。
それはおそらく、日本人が過ごしてきた果てしない時間の中で出来上がった風習に乗っかることで、何かに替えれない日本人としての時間の過ごし方、その豊かさに触れることができるからだと思う。きっと明日、ゆず湯に浸かっても同じようには思わないだろうし、太陽と大地という近代の遥か以前に生きた日本人と繋がることができる、その一日に豊かさの源泉があるのだろう。
なんて思っていると、世界のどこに住んで、どんな食事をして、どんなライフスタイルを持っていても、日本で生きた風習を持って時間を過ごすこと、その意識を持って生きることができる限り、きっと自分は日本人なんだと思わずにいられない。
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