2013年2月11日月曜日

95%の見たくない建築

休暇の前になると、自分でマッピングした地図を眺めて、今度はどこに行こうか頭を悩ませる。

それは至極の一時。

しかしその地図のほとんどを埋めているのは、目的地としてマッピングされなかった、見るに値しないと判断された建築達。建築家と冠した人々に設計されたわけではなく、かといってヴァナキュウラーな魅力をまとっているでもなく、ましてや場の力を空間化した寺社空間でのないそれらの建物郡は、建築の歴史の一ページを飾ることは一度もなく、ただただ凡庸なる日常の風景として広大な風景を占めている。

はっとするデザインを持つわけではなく、ほのかな品の良さをかもし出すでもなく、ただただ標準仕様に少しばかりの自己主張を添加してパッケージされたそのマイホーム郡。「作る」ものではなく、「買う」モノとしてマーケットの中から「選ばれる」家たち。それが普通。

そしてその圧倒的な物量が凡庸と連なり、それが風景になっている現在日本。

否定する対象ではなく、それが当たり前の風景の作られ方であり、その凡庸さの中でも様々な波が押し寄せては引いていき、その経済性や機能性と呼ばれる荒波の中を生き抜いたある型が、現在の家の型として主流を占めており、そこには必ず生き残った、指示された理由があるはずである。

南国と雪国では、それでもやっぱり凡庸の風景が違うはずであるし、生き抜いた家の型もまた違っているはずである。

それらは決して目的地にならないからこそ、その「凡庸さ」に潜んだ強靭な家型のDNAもまたなかなか見えにくくなっているのが事実。

しかしその中にこそ、新しい時代を作っていく目的地になる「建築」へと発芽する何かがあるこをもまた確かであろう。

見るべきものが無いと、「図」として浮かび上がることなく「地」として余白に沈み込んだ95%の見たくない建築たち。その風景に「何か」を見ることができるかどうかが、次をつくることができる建築家かどうかの資質に関わってくるのだろうと想像する。

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