大学時代に卒業を間近に控え訪れたのが上海で、夜に空港に到着し、その乾いた空気に大陸に来たんだと実感しながら、どうにかなるだろうと安易に考えていた宿泊先を思案していると、如何にもなバックパッカーが着いてこいというので一緒に向かった先が船長青年酒店だったのを良く覚えている。かれこれ10年以上前になると思うと感慨深い。
上海。
アモイ同様アヘン戦争の南京条約によって開港され、一気に国際舞台に顔を出すことになる。こイギリス、フランスなどの大国の租界が形成され、西洋文化の華が咲くことになる。
そしてその名の通り1865年に香港上海銀行が設立されるなどして、欧米の金融機関が本格的に上海進出を推進した、今では世界の金融・経済の一大中心地として君臨する。
そんな上海にまたまた足を踏み入れることになった。
日曜の最終便で北京から上海に渡ったパートナーが空港からそのまま印刷会社に向かって、最終で修正を入れていたA0サイズのプレゼン・パネルのデータを送って印刷を開始していたパネルを受け取り、そのままホテルに戻って最後のプレゼン資料をメールで送って、模型と合わせて朝一でコンペ主催者の会社に届ける。
という予定だったが、いつも最後は問題が起こるもので、担当者二人を残してオフィスを出たのが夜の2時。荷物を用意し数時間の睡眠を取り5時に家を出て空港へ。結局5時前までオフィスに残るハメになった担当者のイタリア人と合流し、最終のデータをしっかりとUSBに入れたことと、上海でちゃんとパネルが印刷されたことを確認して搭乗。
9時に上海に着くと、手配してもらっていた先方の会社の人が迎えに来てくれており合流。10時の集合時間に間に合う様にと渋滞の酷い高速を飛ばしてもらうが、あっちにいってもこっちにいってもどこも渋滞。なんとか到着したのは10時過ぎ。
コンペ参加の他の3社のチームと思われる人もちらほら見えて、中では主催会社側ですべての案を比較検討中だということで、昼過ぎまで待たされ、結局昼過ぎに呼ばれプレゼン会場に。
プレゼン後先方の担当者さんと今度の流れを確認し、合流してくれたドモス(中国版)の編集者と一緒に磯崎新設計のヒマラヤ・センターの見学に向かう。あいにくの雨に降られ、グニャグニャの下で雨宿りし、上海屈指のお洒落スポット思南公館でコーヒーを飲みながら嵐のようなスコールをやり過ごし、コンペにも参加していたMADA s.p.a.m.の事務所を訪れる。
马清运(Ma Qingyun)氏はアメリカに居るということで、パートナーの陈展辉(Sunny Chen)氏が歓待してくれた。二人ともパートナーのマとも親交が深いのでドモスの編集長も合流し、MADA s.p.a.m.が西安で作り販売しているというお勧めの赤ワインを明けて飲むが、如何せん昨晩の疲れより飲めば飲むほど眠くなる。
ちなみに马清运氏はアメリカの南カルフォルニア大学の建築学部の学部長を務めており、ほとんどアメリカにいる。カリフォルニア大学ロサンゼルス校UCLAで学長を務める日本の阿部仁史氏と共に、カルフォルニアには二人のアジア人建築学長が存在するということになる。
トロントのコンペの時も、提出時は同じように無茶苦茶だったなんで話をしながら、さらにフラフラになりながら、仕事の為に北京に行くという陈さんと一緒に車で空港まで送ってもらう。
曖昧な理由のために出発が2時間送れた飛行機の中、やっとのことで睡眠を貪りながら、いつの間にか久々の上海を後にする。
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