9/11の近づくこの季節になると、どうしても飯島洋一を思い出す。
15分の間をおかれて、全世界にライブされることになったツインタワーの破壊。そこから、エッフェルのシュミレーションから、アウシェビッツ、シュペアーの光のドームと常に死と破壊というテーマを反復しながらも、近現代の建築史を読み解く一連の建築批評を継続的に世に出す人物。
タイトルのドラマトゥルギーというのは、ドラマの製作手法、作劇論、演劇論という意味で、つまり光がどのように20世紀の建築のドラマを演出するのに使われてきたか、という内容になっている。
第1章では、エッフェル塔の建設現場二階から打ち上げられた花火は、エッフェルが先端部の形態をシュミレートするために行ったのではという仮設から、エッフェル塔の完成は〈電気照明〉時代の幕開けの象徴であり〈火の時代〉の終焉でもあり、(太陽の死)すなわち近代の始まりを象徴するものであるとする。
具体的に明確な目的を持たないエッフェル塔が100年を越えて現存しえたのは、それがメッセージを持たないメディアとしての建築物であった為であり、エッフェルが設計した三つ建造物〈塔〉〈温室建築〉〈鉄道橋〉に近代建築の全てが集約されていたと発展する。
そのエッフェル塔のコンペの第二等案であった、建築家ブルデ の《太陽の塔》は、ただ一つの光源でパリを照らす、人工的な新しい〈太陽〉の創出を求めるもので、そこには昼と夜に区別がなくなり、つまり旧式の時間の概念を一挙に廃止する意図を読み取る。
〈温室建築〉の出現に、世界のミニチュア化と時間の征服を読み、〈鉄道〉というテクノロジーの存在によってもたらされた、時間・空間の新しい知覚。そして、光という〈速度〉で一つに都市全体をすっぽり包み込み、旧式の時間の概念を喪失させるとつなぐ。
《鉄道橋》に現れる、パノラマ的な水平の力学から、画面の多視点的特徴。そして〈映画〉はまさに多視点的な大衆文化の象徴とし、〈車窓〉の窓からの眺めは以前とは異なる知覚の形式をもたらし、鉄道の車窓から見える光景、風景は全て飛び散ってしまい、〈奥行き〉は完全に失われ、身体的なかかわりを絶たれ、遠近感をもまた失う経験を人類にもたらす。奥行きのない、平面化された画像は〈表象性〉のドラマであり、その後の〈映画〉を予告したとする。
《エッフェル塔》 《太陽の塔》 《温室建築》 《鉄道網》 《鉄道橋》 《車窓》 《映画》と見てきて、20世紀の中心的な建築が〈メディア〉だったとし、近代の出発点でもあるペーター・ベーレンスの《AEGタービン工場》は〈装飾性〉と細部が完全に消滅し、「猛スピードではディテールは目に入らない、シルエットしか目に入らない」というベーレンスの言葉を引用しながら、近代文明の〈速度〉の獲得こそ、建築から一切の装飾物を剥ぎ取ってしまったのだ結論づける。そして建築は、やがて四角い無装飾な箱へと作り変えられることになり、次第に〈虚構メディア〉と化してしまう。
そして第2章では〈透明〉の発見とし、レオナルドとレントゲンのX線写真の発見から、生きながらにして自らの頭蓋骨を見た人類は、新しい〈われ=我〉の発見を体験し、それは建築における鉄骨による軽やかな骨組構造〈シカゴ・フレーム〉への移行を促す。X線は透明でないものを透明としてみることによって、〈透明性〉というものを認識することが出来たとする。グロピウスを経て、透明性には多様性と同時性、時-空間の概念つまり対象の裏面、側面までを同時的に知覚し、遠近法への反逆をもたらす。同時的に見ること、対象を〈透明化〉させることは対象を同時的に移動して見るからである。
そこから加速度的に訪れる時間と空間の技術的な征服。ドイツ的な神秘性・山岳的なイメージを経て、〈山岳〉を好んだナチズム。1934、チェッペリン飛行場の党大会のシュペアーの〈光のドーム〉と次第にナチ論へと繋ぐ。
そして第3章では、〈破壊〉の意味とし1914に人類が初めての体験した近代戦争によって、もたらされた〈戦争〉と〈映画〉・〈現実〉と〈虚構〉の相似的状況。それが、人々に〈反都市とユートピア志向〉を植え付け、「確かなものは何一つない」というアポリネールの言葉を引く。
ヒトラーに見られた自己と救世主キリストとの同一化という劇的効果と、第一次大戦を再現、第二次大戦のシュミレートする〈光のドーム〉は〈メディア〉であり、〈別種の時間〉の中で生き始める人類の姿を描く。
ヒトラーの描いた第三帝国の建築は現実に見合う寸法から大きく逸脱したものばかりで、肥大により威圧を与え、ベルリン、リンツ。ニュルンベルク、ミュンヘンという総統都市を実現させる為に〈戦争〉と〈破壊〉を行使したとする。そして、ヒトラーが生きていたのはメディアの中であり、《意思の勝利》、《民族の祭典》に見れるナチの方法は、まず建築物をつくり、そしてそれを映画におさめた上で大衆にアピールする。それは、メディアは〈速度〉によって物理的な距離を越えてしまうからである。
ここから第4章・宇宙からの〈視覚〉とし、〈車窓〉によってもたらされた新しい近くと同様に、宇宙からの〈視覚〉は新しい管理のまなざしであり、それこそがヒトラーが欲しがった〈眼〉であるとする。その映像を見た人類は、インターナショナル・スタイルを創成し、遠く隔たったいくつもの地域に、同じデザインの建築が発生することになった。それは、同時的に起こり、同時的に知覚しうるメディアであるとする。こうして生み出される大量生産の根のない建築。
人類で始めて大気圏外から肉眼によって地球を眺めたガガーリンの「地球がよく見える。地球は青い。美しくて気分は非常に良い」の言葉に表されるように、宇宙からの視覚を得た人類は、地球を映像としてみてしまい、それは人々の認識を大きく揺るがさずにはいなかった。それはついに〈人間の無限化〉を獲得するに至る。建築においても、ピロティは〈移動〉可能なものとして建築を改定し、ミースによって均質空間がつくりだされる。
第5章はテレビジョン・シティとし、テレビの映像によってもたらされた、意識をものから引き剥がし、イメージへと推し進める、〈内容〉から〈形式〉の時代。テレビの中の無時間性と、イメージという被膜メッセージで世界全体をくまなく梱包しようとする、世界の梱包化。
そこから生まれたポストモダニズムは、〈表層〉だけが、日々生きてゆくうえで最も価値のある世界をもたらし、表層=パッケージ(形式)とし、モダニズム建築を〈メッセージ〉で包み込み、占領してしまうスタイルだったと定義する。
原子爆弾を経て、核時代の逆説へと入り、近代建築が工業化によって、建物を現場でなく工場で作り出しはじめたという現象がもたらした、一切の〈無限化〉こそが近代の結末だとする。そして〈無限化〉にいかに抵抗するか、新しい〈土着性〉をどのように獲得するか、それがこれからの課題とする。
第6章は〈CG〉からの風景とし、コンピューター、CG、幻覚的体験の世界、サイバネティックスと経て、ニューロンは生物体の中のシナプスは機械の中のスイッチ装置に相当するシナプスによって、触していない隙間を持ちながらも別のニューロンと繋がっていく様子を描きながら、生物のアナロジーへとつむぎ、これからの建築は生物=機械のアナロジーとして語られるべきとする。それは、自然と共生し一体化する有機的で生態学的なアプローチを期待する文にて本書を終える。
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