2015年10月6日火曜日

鹿島神宮(かしまじんぐう) 神武天皇元年 ★★★★★


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所在地 茨城県鹿嶋市宮中
主祭神 武甕槌大神(たけみかづちのみこと)
社格  式内社(名神大),常陸国一宮,旧官幣大社,
本殿の様式 三間社流造
創建   (伝)初代神武天皇元年(紀元前660年)
機能   寺社
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東国三社
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水戸での訪問が思ったよりスムーズに行ったため、幾つかの現代建築を諦める代わりに思い切って茨城を南下し二つの神宮を巡ることにする。

そもそも「神宮」と言えば、誰でも伊勢神宮を思い出すであろうが、それだけではない。そもそも、神社の名称の最後につく社号は神宮を含めて全部で6つ。「神宮」、「宮」、「大神宮」、「大社」、「神社」、「社」となる。

伊勢神宮、明治神宮など、「神宮」を冠する神社は如何にも位の高そうな神社の様に思われるが、正確には古代から皇室と深いつながりを持つ神社、もしくは天皇そのものを祭神とする神社に使われている社号だという。

「日本書紀」では、伊勢神宮と石上神宮のみに「神宮」が使われれ、その後平安時代に成立した「延喜式神名帳」では、石上神宮に代わり鹿島神宮と香取神宮が「神宮」と記載されており、その後時代がくだれど、江戸時代まではこの3社のみが「神宮」を社号としていたという。明治以降、天皇や皇室の祖先神、また国に対して特別に功績の大きな特定の神を祭神とする神社の一部が「神社」から「神宮」へとその社号を改めたと言う。

現在「神宮」と社号をする神社を幾つか並べて見ると、

神宮    (伊勢神宮)
伊弉諾神宮 兵庫県淡路市
霧島神宮   鹿児島県霧島市
鹿児島神宮 鹿児島県霧島市
鵜戸神宮   宮崎県日南市
英彦山神宮 福岡県田川郡添田町
橿原神宮   奈良県橿原市    祭神:神武天皇
宮崎神宮   宮崎県宮崎市    祭神:神武天皇
気比神宮   福井県敦賀市    主祭神:伊奢沙別命、副祭神:仲哀天皇
宇佐神宮   大分県宇佐市    主祭神:応神天皇、神功皇后
近江神宮   滋賀県大津市    祭神:天智天皇
白峯神宮   京都府京都市上京区 祭神:崇徳天皇、淳仁天皇
平安神宮   京都府京都市左京区 祭神:桓武天皇、孝明天皇
赤間神宮   山口県下関市    祭神:安徳天皇
水無瀬神宮 大阪府三島郡島本町 祭神:後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇
吉野神宮   奈良県吉野郡吉野町 祭神:後醍醐天皇
北海道神宮 北海道札幌市中央区 副祭神:明治天皇
明治神宮   東京都渋谷区    祭神:明治天皇
熱田神宮   愛知県名古屋市熱田区 御神体:三種の神器の一つの天叢雲剣(草薙剣)
石上神宮   奈良県天理市    御神体:布都御魂
國懸神宮   和歌山県和歌山市  御神体:日矛鏡
日前神宮   和歌山県和歌山市  御神体:日像鏡
鹿島神宮   茨城県鹿嶋市    祭神:武甕槌神
香取神宮   千葉県香取市    祭神:経津主神
山上大神宮 北海道函館市    祭神:天照大神 豊受大神

となる。ちなみに鎌倉宮などの様に「宮」がつく神社は親王を祭神とする神社と水天宮や天満宮、八幡宮の様に、伝統的な呼称に基づく神社だという。ちなみに親王とは天皇の嫡出の男子、及び天皇の嫡男系の嫡出の男子のことを指す

その次の「大社」がつく神社は地域信仰の中核をなしてきた大きな神社を指す社号とされ、かつての「官国幣社制度」では出雲大社だけが「大社」と呼ばれてきたが、戦後において、住吉大社・春日大社・諏訪大社・三嶋大社などの様に、全国に多数ある同名の神社の中で宗社にあたる神社であり、かつ旧社格が官幣大社・国幣大社であることを基本として、社号が変更されたと言う。


そんな訳でこの鹿島神宮に戻ってみる。お隣の香取神宮と合わせてこの二つの神社が伊勢神宮に次ぐ地位というほど、とても重要な意味をお持ち、また長い歴史の中で深い信仰を集めてきた。その理由はというと、古代においては関東東部には香取海と呼ばれる内海が広がっており、鹿島神宮、香取神宮はその内海の入り口に位置しており、この香取海はヤマト政権が蝦夷へと進出する際の輸送基地として機能したといわれており、その為にこれらの両神宮は朝廷の威を示す神として、また蝦夷の平定神して広く信仰されたという。

その後関東に広く分布していた藤原氏からも氏神として崇敬され、中世の武士の時代のなっても多くの政権から武神として崇敬されてきた。その為に現代においても武道において篤く信仰されているという。

常陸国(ひたちのくに)の一宮である鹿島神宮。
下総国(しもうさのくに)一宮である香取神宮。

この二つが一つとして機能し、古来の日本を護ってきたと言う訳である。この話、つまり蝦夷への意識を理解すると、鹿島神宮の社殿が北を向いて配置されている意味も理解できるようになる。

また鹿島神宮、香取神宮は、息栖神社と共に東国三社(とうごくさんしゃ)として括られ、利根川下流域に位置する重要な神社の一つとしても長く信仰を集めてきたという。

そんなこの国にとって特別な場所である鹿島神宮。東の果てということでなかなか来るチャンスが無かったが、下道を我慢しながら南下しやっと到着したのは夕方の16時。まだ日のある内に参拝をできるのを喜びながら鬱蒼とした樹叢の中に伸びる参道に足を踏み入れる。

境内にはどうやら県内の高校の遠足か社会見学かで制服に身を包んだ多くの学生の姿が目に付く。学校と言う日常から離れ、気になる異性とおしゃべりをしたりと、なんだか賑やかな雰囲気。「女三人寄れば姦(かしま)しい」とはよく言ったもので、女生徒たちの嬌声から避けるかの様に足早に先を進むことにする。

参道を進むと、参道に向き合わず、右に向く形で社殿と向き合うことになる。これが先ほどの蝦夷への意識から向けられた方向性ということになる。この社殿は、徳川家2代目将軍である徳川秀忠による奉納。如何に武家社会からの信仰が深かったかが感じられる。

更に参道を進むと、ぐっと森が濃くなる印象の樹叢の中にあるという奥宮を参拝すべく足を進ませる。ここら辺から本当に素晴らしい雰囲気を醸し出す。何百年も、人々に愛され、そして地域にとって神聖な場所として崇められ、人の存在を超えたものが潜む場所として整えられた風景の在り方。

巨木に囲まれ、沈み往く日の光の後方から受けながら、白砂利の上を一歩一歩踏みしめながらまるで森の中に吸い込まれていくような雰囲気。300mほど進むと、先ほどの社殿と同様、右側にポッと空間が開けたかと思うと奥宮が顔を出す。屋根も苔むし、周囲の木々の間から差し込む光を所々に受けながら、何百年もひっそりとこの場に佇んでいたかのようなその佇まい。脅威でありまた多くの恵みを与えてくれる自然の代理として人々に認知できる形にされた自然の建築化の姿。そんな見事な融合を感じさせてくれる風景である。

この奥宮は元鹿島神宮の御本殿であり、御祭神は武甕槌大神荒魂。徳川幕府初代将軍である徳川家康公による奉納。つまり親子二代に渡り武家の神様であるこの鹿島神宮に奉納をし、社殿を整えた徳川家がその後15代300年も続き、現在の基礎となる日本を作ることになる。

その歴史と風景を堪能するようにじっくりと参拝をし、後ろから忍び寄るかしまし娘たちの声から逃げるように更に折れ曲がり下っていく参道を進むと、再度ポッと開けた空間が見えてきて、売店の後ろに如何にも神気が湧き出てくるような「御手洗池」が広がる。横から伸びる樹の枝を支えるように鳥居が池の中に立ち、よく見ると池へと降りていく階段が設置されている。

かつてはこの場にて身体を清め、その後参拝をしていったということは、長い間こちらが表参道として現在の奥宮への参道として使われていたのだろうと想像できる。

売店前のベンチにかしまし娘たちが集まってきたのを察知し、御手洗池の後ろの湧水で口を漱ぎ、さっさっと来た道を戻り先ほどの奥宮へ。その奥宮の後ろに伸びる道を進み、今度は森の中にある要石(かなめいし)を参拝する。地震をおこす大鯰の頭をおさえているとも言われる霊石であり、日本は古代の時代からも人智を超えた天災に怯えながらもどうにかそれとうまく折り合いをつけていこうと知恵を絞っていたのが伺える。この「要石」はこの後訪れる香取神宮にもあり、その2つは地中でつながっているとの伝承もあると言う。

すべての参拝を終え、再度境内を戻っていくと、今度は正面から夕日を受けるようにして道を進むことになる。木々の間から差し込んでくる光はまるでその勢いを強めるようにして強烈なスポットライトの様に様々な場所を照らし出す。まるでそこにかぐや姫でもいるのではないかと思う神々しい光を見ながら、この場所が何百年も後もこうして人々に愛される特別な場所として変わらないでいることを確信し香取神宮へと足を向けることにする。













































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