流石に平安時代の物語だと、事実を追うための資料が足りないのであろうか、随分と作者が語るくだりが多く目に付くのが他の司馬作品との大きな違い。流石に1000年以上の時間の隔たりは、そうそう簡単には埋められないということか。
どの分野でもそうであるが、新しいものが生まれる混沌とした時代。それから幾つかの勢力が力を持ち始め、徐々に安定化していく時代。その後安定勢力が既得権益を獲得し、当初の目的よりも利権の確保が意味を持ち、変化を阻もうとする時代。
6世紀半ばの仏教伝来以後、200年となる空海が生きた平安時代。奈良仏教と呼ばれる、仏教における6つの思想部門が奈良に成立した華厳(けごん)、法相(ほっそう)、三輪(さんろん)、倶舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、律(りつ)の南部六宗。
それらの釈迦仏教は煩悩からの解脱のみを唱えることに疑問を持ち、「過去のどの宗も真言密教にははるかに及ばない。ただ華厳経のみが、いま一歩のところで密教に近づいている」と華厳学の部門の大学として機能していた東大寺だけを評価する若き空海。
華厳経をとことん学び、釈迦を教祖としない非釈迦的である密教世界を知るために、当時のインターナショナルなアカデミズムの中心地であった唐への遊学を様々な手を使って画策する。そして手に入れた入唐(にっとう)のチケット。命がけとなる唐行きの船の上にあるのは、生涯のライバルとなる最澄の姿。
大日という宇宙原理に人間の形与えたものを教祖とする新しいインドの密教の教え。能動の世界である金剛、変容の世界である胎蔵界。密教の行法である護摩の行い方。当時の最先端の学問を全て身体の取り込み、その全ての日本に持ちかえる空海。
曼荼羅という宇宙の本質の姿を立体・平面で現したものを幾つも持ち帰り、釈迦没後56億7千万年経って地上に生まれ、人類を救う仏である弥勒(みろく)を持ち帰る。
儒教は世俗の作法に過ぎないとし、中国文明は宇宙の真実や生命の深秘についてはまるで痴呆であり、無関心であったとする。重要なのは史伝と事実であり、誰がいつ、どこで、何をしたか。もともと人生における事実など水面にうかぶ泡よりもはかなく無意味であるとする立場からすれば、ばかばかしくてやる気がでない。
それに対してインド人は対極に位置し、時間がない。「生命とは何か?」ということを普遍性の上に立ってのみ考えるがために、誰という固有名詞の歴史もない。いつという歴史時間もなかった。すべて轟轟とそて旋回する抽象的思考のみであり、その抽象的思考によってのみ宇宙を捉え、その原理をひきだし、生命をその原理の回転のなかで考える。
人生の悦楽の一つは自分とおなじ知的水準の人々と常時交わりを持ちうることであり、稀な才能な人物であればはるほど、喜びを分かち合える仲間は少なくなる。その人物が集まる場所が時代の中心であり、周縁では出会うことが無かった人物と出遭い自らを高めることが出来る。
京に戻り、朝廷から「国を護る寺を作る」様に国家プロジェクトを任されるまでになった空海。東寺を密教の中心機関へとすべく、講堂を建立し大日如来を中心とする五体の如来像(五仏)、金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩)、不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)、それに加え梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像をあわせ、全部で21体の彫像により、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)をつくりだす。
天空に理想の仏教世界を作ろうと高野山に戻る空海。その眼に映った風景はどれだけ先の日本を捉えていたのだろうと想像する。
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