2010年11月21日日曜日

これからの住まいを求めて シンポジウム























先日、中部電力主催のシンポジウムに呼んでいただき、建築家の中村竜治さんとともに、基調講演を行い、シンポジウムに合わせて開催された東海圏の建築を学ぶ学生コンペの公開講評会にパネラーとして参加させていただいた。

最近しみじみと思うことは、建築のプロジェクトには大きく二つのパターンがあり、一つは打ち合せを進めていくクライアントが、実際にその建物を使わない場合で、集合住宅や、公共建築などにあたる。

そしてもう一つは、打ち合せの相手がそのまま建築の中で生活を行うユーザーとなる場合。個人住宅や、飲食店などもこちらに入るだろう。

法人か個人かの違いかといえば、そこまでなのかもしれないが、不特定多数に向けての最大公約数的な設計に向かうのか、極めて個人的な身体と好みと年齢と経済状況等、様々な要素を含んだ特殊解に向かうか、その二つの流れの中で、建築家として何に自分自身を同化させる必要があるかを見極める力も職能としてとても大切なものだということ。

設計行為というのは、打ち合せをから要望を吸い上げ、提案をし、図面をおこし、確認をとり、段取りをし、現場を監理し、引き渡すというだけでなく、時に大きくその枠からはみ出し、施主の生活に足を踏み込まなければいけなくなる。特殊解である施主に対して、生きてきた時間ですらかなわない一建築家が、完璧な設計と図面など用意できるわけもなく、常にそこ高みを目指しながらも、それ以外の心遣いでどうにか施主との時間と隙間を埋めていき、その冗長性の中で信頼と信用を得ることができて、初めて満足して生活に入っていってもらえる。

そんな思いに駆られている昨今、講演内容も自分の設計に真摯に向き合えない建築家が、どうやって施主の信頼を得られるのか、というやや精神論的な内容に寄ってしまったので、聞いていた学生さんを混乱させてしまったかなと思いつつ、何か一つでも言葉が残ってくれればいいなと思う。

さて、楽しみにしていた中村さんの講演内容だが、ずっと続けていられるヘチマ・シリーズから最近のヌケガラ・シリーズへの展開と、メガネショップ・シリーズで何を考えて、そして最近のプロジェクトまで話されたが、一貫して自分のペースで、言葉を大切に喋られる方だという印象を受けた。

ユニットの集積として、集中する応力をシステム全体として吸収・拡散する個のもつ数ミリの冗長性に見ているのは、ゴシックかそれとも日本の伝統工法か?特殊な用紙を水に浸し、結合部にはスティールばりの接合方式を採用し、さらにユニットの構成要素を紙という木を背景にもつ素材から、近代の歴史をなぞるようにアルミニウムへと変更したときに、建築を編むというような結合部の在り方がでてくるのか?などと思いながら、いろいろと話を聞かせていただいた。

それはさておき、今回のメインである学生の作品についてだが、東京以外の日本の都市で建築を学ぶ学生の作品に初めてといっていい遭遇であったのだが、学生達からも建築をどう学んでいいのかとコメントがあった通り、やはりギャップを感じずにはいられなかった。これだけ情報に溢れた時代に、それでも生まれる教育の場のギャップ。大学の解体が叫ばれたネット黎明期が懐かしいが、現実には教師という一個人のもつ冗長性に負うところの多さを改めて感じる。

最後は5年後10年後も建築を好きでいてほしいという言葉を残し、向かうべきは今現在向き合っている受け持ちの学生に一体何を伝えられるのかと思いを馳せながら、新幹線に飛び乗る。







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