お腹の中で、小さな一点からおたまじゃくしを経て、蛙を経て、猿を経て、10ヶ月で人間としてこの世に届ける。それは永い永い人類の進化をたった10ヶ月でやってしまう。だから人間は誰でもとても大きな時間を背負っており、ただ与えられた生を全うすることがまずは何よりも役目。
そう語ってくれた幼き日の父の言葉。
諸宗開祖のまた弟子になりたくない。自分は釈尊直接の弟子でありたいと、一心に悩み、学び、獅子吼し、ひたすらに南無妙法蓮華経の七字に願いを託し、蓮華経こそは釈尊第一の教えと、既存勢力である八宗十宗にとことんダメ出しし、もちろんのこと猛烈な弾劾に遇いながらも、真の釈尊の教えは法華経にありと唱え続ける激しき日蓮。
釈尊の教えは一つのはずなのに、どうして今の仏教はこんなにも分派し、しかもそれが民衆の救済になっていないではないか・・・奈良仏教、平安仏教もその起源は衆生救済のために経典に救いを求めていたはずなのに、今では比叡山、高野山、南都七大寺、近江の円城寺と、どれも権力にすり寄り、ともに本当の釈尊の教えを学ぼうと、どんんなに向かって言ってもまともに相手にしてくれない。そんな中さらに最新の中国仏教からの流れを受けて、生まれ行く鎌倉仏教を同時代として感じながら、それでも払拭されない違和感。
生きとし生けるもの皆、悲劇の傀儡であり、道徳教義も一切が空であるこの世。人がなぜ不仕合せになっていくか知りたいと志して入った仏の道。
乱立する現在の仏教世界の中で、誰が本当の釈尊の弟子か?教えが曖昧か、それとも正しく読み解けない知恵無しか?一体釈尊は何宗なのか?
と、誠実さゆえに一心不乱に学び、国の乱れの基は思想の分裂とし、誰からも迫害される覚悟を持って立宗に至る日蓮。
一つ間違えば、また一つ乱立する分派を増やすのみで終わってしまう恐れもありながら、それでも信念を貫き、煮えたぎるような激しさによって、迷うことのない境地までたどり着いたからこそできる決断。800年前の人も、我々と同様に、悩み、恐れ、哀しみを感じる人であった日々の中、ぶれない道へと導くのは情熱・努力・行動力であるのは変わらないということか。
そのマグマのような激しさを感じに、迫害の末に日蓮が選んだ身延山久遠寺の地に近々訪れることを胸に思い、その激しさを持つためにも、狂気を感じる位の学びの時間に思いを馳せる。
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