2015年3月9日月曜日

異なる価値観を認めること

空港のラウンジで、子供連れの中国人が大声で泣き出した子供に対して「シーーッ」と注意をしている姿を見かける。中国国内ではほとんど見かけることのない光景である。

中国国内では、ほとんどの親がたとえ公共の場所で子供が大声で叫んでいたり、泣いていたりしても、「それが周囲に迷惑となっているかも」という気の使い方はほとんどせず、何も気にせずむしろ自分もipadなどで大音量を流しながら映像を見ていたりする姿を良く見かける。

そんな光景に「民度」という言葉がよく心の中に浮かんできたのだが、空港での光景を見ると、そんな「民度」は国という括りよりもやはり「人」によるのだと思わずにいられない。

社会的振る舞いというのは、「自分の価値観とは違う人が世の中にはいる」ということをまずは認識し、次にそれを認め、自分の常識が他の人にとってそうではないかもしれない可能性について想いを馳せ、相手に不快な思いをさせないように気を遣って行動をする。それは相手への敬意でもあり、同時に自分も同じ様に社会的に扱われ同様に気を遣われることを期待することでもある。

つまり世の中には自分とは違った価値観をもち、社会的行動規範を持つ人々が多く存在し、自分も社会の中で生きていく上ではそれを尊重しなければいけない。

そういうことを成長する過程において誰かから教えられるか、もしくは自らの経験としてそれを学んでくるかしかない訳である。

ラウンジで見かけた人は恐らく後者に分類されるのだろうと思う。違う文化圏に足を踏み入れ、ツアー旅行でどこまでも準備された世界を見学してくるのではなく、しっかりと一人の個人として文化や人に触れてくること。その中で自分とは違う文化への敬意を感じて、その社会で求められる振る舞いやマナーが存在することを学ぶ。

そういうことを繰り返すうちに、ある種の共通認識へと到達する。

21世紀の価値観が多様性だと叫ばれるなか、世界中のどこ国においてもこの「自分とは違う価値観を持った人が存在し、それに敬意を払う振る舞いをする」ということが国際舞台での最低限のマナーとなるだろうし、同時に多くの摩擦を軽減する手助けにもなるだろうと思わずにいられない。

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