2015年7月19日日曜日

月の花 7月 向日葵


ギラギラした日差しが照りつける、向日葵(ひまわり)畑で麦藁帽子に虫取り網で駆け回る子供たち。そんな夏の代名詞でもある向日葵。その名の由来は、花が太陽の方向を追うようにして動くことからきているという。

その性質から多くの向日葵が同じ方向を向く姿は、なんとも可愛らしい風景を作り出し、多くの人から愛されている。ちなみにこの性質は成長が著しい若い時期だけのものであるといい、花が完全に開いた花では東を向いたままとなるようである。

小さなころ、家の近くにあった油脂製造会社でも扱っていたヒマワリ油も、この向日葵の種を搾油し作られる。その工場から漂っていた独特の匂いも、この向日葵の一つの印象として、夏に咲き誇る向日葵の姿を見るたびに思い出すことになる。

すくっとたちあがり、燦燦と日を浴びる向日葵の花言葉は「私はあなただけを見つめる」「愛慕」「崇拝」。やはり太陽に向けて成長する姿や、その凛々しい姿から来ているのだろと想像する。

その名称は日本中に多くあるが、やはり一面に広がる向日葵畑となると、北海道や山梨などがよく知られているようである。

ヒマワリの名所・花の名所案内

夏には必ず向日葵に囲まれてその花々が顔を向ける太陽の恵みに想いを馳せる、そんな時間を持ちたいものである。

1月  / 水仙
2月 梅 / 椿 / シクラメン
3月 桃 / 沈丁花 / 白木蓮 
4月 
5月 バラ
6月 紫陽花 / 花菖蒲 
7月 向日葵 / 朝顔 / 蓮
8月 コスモス / 向日葵
9月 彼岸花  / 金木犀
10月 シクラメン / 山茶花 / 金木犀
11月 
12月 水仙

2015年6月13日土曜日

洛陽(河南省) ★★


「洛陽」と聞けば、古代中国の都として多くの風景が頭の中に浮かぶ名前である。正確には洛陽(らくよう、洛阳、Luòyáng)と呼ばれ、東周、後漢や西晋の首都として栄え、現代においても、北京や南京などと共に中国の「八大古都」の一つにあげられる都市である。

現在では中国の河南省(かなんしょう,河南省, Hénán)の中核都市として栄え、省都である 鄭州(ていしゅうし,郑州,Zhèngzhōu)と共に、約1億という中国でも最大の人口を誇る省である河南省の経済を支えている都市である。

河南省は所謂「中原(ちゅうげん、Zhōngyuán)」と呼ばれる黄河の中流と下流にかけての地域で、古代中国の多くの国が生まれ、覇権を争った歴史の舞台でもある。地図を見ていても、殷の都安陽、東周から長く都が置かれた洛陽、宋の都開封という3大古都を有する省でもある。

ではなぜその様に古代においてこの地が発展を遂げたかというと、地図をよく見てみると、省の北部を東西に貫く巨大な川が見えてくる。ズームアウトするとこの川が中国を東西に貫く二つの巨大河川の一つ「黄河」であることが見えてくる。その上流である西から順に、洛陽、鄭州、開封が位置していることが見えてくる。

さらに洛陽と鄭州の間、やや南に下ると中国五岳の1つの中岳である嵩山(すうざん、Sōng Shān)が聳え、禅宗の祖庭である嵩山少林寺を中心に禅の文化を発展してきた。

そんな歴史の拠点である洛陽にはぜひとも一度は訪れたいと願って止まなかったがついに機会が訪れたと、早朝の便で向かい、一日かけて市内を回り、深夜の便で北京に戻ることにする。

現在の市の中心には140万人が住むと言われ、中国ではそれほど規模の大きい都市とは思わないが、それでも100万人都市を考えたらやはり規模はかなりのものである。街中に入ると街を行きかう車のナンバーには「豫」の文字。それを目にすると日常とは違う場所に来たことを実感する。

街を東西に走る洛川の北がどうやら中心部のようであり、その東に位置するのが古い町並みの老城。その老城を東西に突っ切るように走るのが中州中路で、どうやらこれが街の中心道路であり、賑やかな商業施設がこの道沿いに展開する。

その一本南の西大街は老城の真ん中を突っ切り鼓楼まで達し、日が暮れてくると多くの人が道幅の狭い、車の走っていなかった時代の身体スケールの感じられる街並みを楽しみながら、道の両脇に展開する小吃を楽しんでいる。

街の南には世界遺産にも登録されている龍門石窟寺院。東の郊外には中国で一番最初の仏教寺院だといわれる白馬寺が位置し、悠久の歴史を感じるには十分の都市である。ただし、この時期はすでに太陽が真上から照りつけ、平坦な地形も手伝って日中は外を歩くことができないほどに暑くなり、その熱は夜になっても町中にこもってしまいなんとも夏は過ごしにくい都市である。

それでも、一度は足を運んでみたかった洛陽の地。現在のアジアのあちこちに流れる文化の源流もこの都市にあったのだと思いながら、できるだけ古代の風景を想像しながら一日を過ごすことにする。
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四大古都
六大古都  
八大古都
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河南省
黄河と長江
黄河と河南省

略称「豫」のナンバープレート




2015年6月3日水曜日

月の花 6月 紫陽花 アジサイ

妻が一番好きな花・紫陽花。その中でも一番お気に入りなのは濃い紫から青の色のもののようである。旅先で紫陽花を見つけるために、あれこれと構図を考えてはカメラで撮るようにお願いされる。そんな紫陽花。

露が始まる嫌な季節だけれども、この紫陽花が見れると思うと少しだけ気分が癒される。そんな訳で6月の花として描いてみる。

1月 / 水仙
2月 梅 / 椿 
3月 桃 / 沈丁花 / 白木蓮 
4月
5月 バラ
6月 紫陽花 / 花菖蒲 
7月 向日葵 / 朝顔 / 蓮
8月 コスモス / 向日葵
9月 彼岸花  / 金木犀
10月 シクラメン / 山茶花 / 金木犀
11月 菊
12月 水仙

こうしてじっくり描いてみると、何枚もの花が重なり、いくつもの花が集合して我々が「紫陽花」として認識する一塊になっているのだと理解する。その重なりの為に、微妙なグラデーションの上にさらに、微妙か影が何十にも重なって、それを細かく描いていくには相当に忍耐が必要である。

そんな姿を見て、「なんだか楽しそうね。私もやってみようかな」と画用紙を要求してくる妻。少し大人しくしているなと思っていたら、数分後に「できた」と見せてくるのは子供のお絵かきのような外形線のみ。

「やはり、才能無いみたい」というので、「何ならあるのかな・・・」という言葉をグッと飲み込み、再度紫の色鉛筆に向き合うことにする。




2015年5月10日日曜日

「プロフェッショナルとは何か―若き建築家のために」 香山壽夫 2014 ★★


「建築」を学ぶには様々な方法がある。

実際に建築に足を運び、どの様に空間が構成されているか、自らの身体を使って理解し、細部がどの様に設計されているのかを実物を目の前にして学ぶこと。

実務について、日々行われる様々な検討や施主や各専門職とのやり取りにおいて設計を組み立てていく方法を時間の中で学び、そして自らが描いた図面が現実の世界においてどのように立ち上がるかを現場にて学ぶこと。

専門知識を身に着けるために様々な書籍に目を通し知識を深め、実務能力の向上と共にそれらの知識の見えなかった部分が違った意味で理解できるように本での学び。

そんな「本」の中でも、学問としての建築の素晴らしさを学んだのが、学生時代に何度も何度も読み返し、線を引き、出てくる建築を別の書籍で調べた「建築意匠講義」。今でもたまに見直してみるが、その度に当時の自らの思いを嗅ぐ様な気持ちになれる一冊である。

その著者による最新の一冊。本を通して自らの職に対する「先生」と思える人に出会うことは喜ばしいことで、その人の本を読むことはまるで授業に出席するような気持ちになれるのもまた、息の長い職業に就いている上で、初心を思い出す貴重な時間でもあろう。

読み終えて改めて、改めて自分が選んだ職業に対しての責任を感じながら本を閉じることにする。


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/建築ー私の「プロフェッション」
自分の生涯の仕事、すなわち職業(プロフェッション)と決意し、そういう風に生きていくのが「プロ」です。

/「プロフェッショナル」とはどういうことか
建築設計の専門家としての能力によって、社会に奉仕する
「告白」あるいは「宣言」した人 聖職者
間違って用いられれば、社会を傷つけ壊す力を持つということを自覚する

/選ぶということ
人は選ばねばなりません。心を決めて、可能性の一つを選び、他を捨てねばなりません
何が成功か、何が失敗か、簡単には言えないのが人生なのです。
最終的に、自分の中で、自分に話しかけている、静かな、内なる声に耳を傾け、それによって、最後の決断をしている

/才能とは何か
基本的な手法を身につけずに、自由な表現などあり得ない
プラトン「君が、もし、建築や都市の設計者なろうと思うなら、先ず、第一に幅広い教養を身につけたまえ。なぜならば、様々な芸術家の中でも、建築家は、とりわけ広い知識と能力を必要とするからだ」
世阿弥は、能楽者になる為に大切なことは、ひたむきということだ

/屋根と柱
常に登るように作られている屋根に登ることは空しい。それは結局屋根ではなく床だからだ

/床と段
神道の最も古い形を示す、「磐座(いわくら)」が一段高いところを神の座とした

/大地と基壇
大地は常にうねり、隆起し、あるいは陥没し、変化しようとしている。その動きを抑え、静止さえ、そしてそこに水平面を作り出すことが、建築行為の出発点である。ではその水平面をどのように作り出すか。
方法は二つ 基壇を築くこと。
高床を築くこと
構築の基本
高床は大地から離れて空中に軽やかに浮かんでいる、それを支えている柱は、大地の力を受け止めていつも力いっぱい闘っている
伊勢の柱 コルビュジェのピロティ
基壇の上には、平安がある
基壇の上に立つ列柱には、永遠の安らぎと憩いが

/捧げものとしての芸術
大きな決断は個人を通して出なければできない。間違うかもしれないけど、最後は責任を持って自分で決断する。

/教会空間とは何か
シナゴーグが教会動画生み出される一つの母体であった
初期キリスト教の信者たちが作り出した教会堂建築、ふたつの対照的な平面形式に分類で「集中型」と「長廊型」というこの二つの形式は、人が集まる時に作り出す、二つの空間形式に対応している
前者を「囲み型」、後者を「対面型」
ゴシック様式長廊式の、一直線に信仰する空間の運動性を、一つの極点まで高めた
水平方向と、垂直方向という二つの運動性の、極度に強調された構成が、ゴシックの建築空間の特徴
会衆は祭壇から遠ざけられ
朗読も説明もほとんど聞き取れない
ルネサンスの建築家たちは、集中式の建築に注目し、それを復活させようとした
中心を囲んで集まり活広がる力と、中心に直面してそれを熟視する力をいかに統合する

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■目次
・建築家という「プロフェッショナル」の意味すること
 「プロフェッショナル」とは何か
 いかにして「プロフェッショナル」となるか
 「いつも喜んでいなさい」
・建築家の日常と仕事
 町の家と山の家
 人生のみちしるべ
 「内田ゴシック様式」の展開
・都市に開かれた新しい門と広場
・内田ゴシック建築の上方への展開
・ルイス・カーンの教え
・フランク・ロイド・ライトの内なる対立
・空間と表現
・建築にしかできないこと 聞き手:長島明夫
・建築の経験 建築の持続
 教会堂建築とは何か
 必読指南
・若者への問いかけ、あるいは自身への問い直し
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「教師格差―ダメ教師はなぜ増えるのか」 尾木直樹 2007 ★

地方の学校で教員をしている友人の話によると、決して学業が優秀なわけでもなく、かといってスポーツや文化活動に力を入れているでもなく、「高校は出ておいてほしい」という親と「高校ぐらいは出ておかないと」という生徒の思いの受け皿となっているその学校では、事なかれ主義の教師達と、教師の対する尊敬を失い身勝手な行動を取る生徒と、学校や教師に対してクレームをつけることで自らのストレスを発散しようとする保護者とで、なんとも閉塞感に覆われた状態になっているという。



その学校が特殊な状況であるということもあるだろうし、それらの教師、保護者、生徒も全体から言えば一部に過ぎないのではあろうが、それでもいつ頃からか学校と言う場の風景がかつてのそれとは確実に変わってきている印象は拭えない。

いつ頃からか、ニュースで定期的に目にするようになったのが、どこかの学校の教師の不祥事。体罰、盗撮、セクハラ、わいせつ犯罪、いじめを見て見ぬふりなど挙げればキリが無い。

それがテレビの向こうの遠い世界での出来事ではなく、自らが生活を営む場所のすぐ隣で起きていること。想像するに、このような事件や事象はかつてもあったの違いないが、それが今の世の中の様にすぐにネットやニュースで一般の人の目に届きやすい環境が無かった為ということもあるだろう。

しかし、それ以上に本書で指摘されるような学校内での「評価主義」や「成果主義」により、教師が生徒から乖離してしまうこと、また「教員」という職業に対しての保護者や生徒が絶対的な尊敬と信頼を失い、下手をすれば「自分の方が優れている」と対抗意識を燃やしてしまう。そして裏サイトの様に、本来ならば自らを反省して行動を変えるべきところを、肥大化したエゴを抑えることができず匿名のネット環境にてその憂さを晴らす生徒たち。

これらのことはすべてネットが登場し、一般化していく過程に沿って広がったかのように見える。ネットの普及によって、今まで知りえることの無かった知識や情報に手が届き、同時に今まで自分の中に隠しこんでいた欲望が顕在化されたことも大きいであろう。

同時に、本来なら教師と生徒、教師と保護者、学校と家庭というある種の信頼関係と尊敬によって成り立っていた関係が、ネットを探せばそれこそ数多もの悪い情報が見つかり、自分の鬱憤を晴らすこと、そしてその方法が目に留まり、本来なら留まっていたはずの心が「ふっ」と背中を押されてしまう。「あ、他にもやっている人がいるんだ」から、「ほら見ろ、やっぱり自分が正しいじゃないか」となるには時間はかからない。

教師側も、保護者側も、学校も生徒も、皆身勝手な考えと行動が少しづつ助長され、いつからか自分のプライドを守るために相手を傷つけて関係性を壊しても問題ないというところまで到着してしまう。始めは一点だった綻びも押し寄せる水圧に屈する様に、いつの間にか当たり前の風景になってしまう。

その場での自分のプライドを守るという短期的な満足感よりも、人生という長期的なスパンでどんな人間として成長し、どの様に周囲と関係性を構築していくのか、その重要性を学校と家庭で共有して子供に教えていく、そんなことが必要なのであろうと改めて思わずにいられない。
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■目次  
序章 病める教師―教育の現場から 
①「心の病」と教師
/壊れる教師
/「聖職者」は死んだのか
/東京都教育委員会による”いい加減のすすめ”
/確実に広がっている”教師格差”
②教師が病んでしまう理由
/押し付けられる「枠の中の教育」「型の教育」
/教師を教師でなくする「評価主義」「成果主義」
/教師間のいじめ
/現場を”無視”した教育課程と教育論議
/「過労死」も危ぶまれる劣悪な労働環境
/教師は悲鳴を上げている
/一日の残業が7時間42分

第一章 教師力は落ちたのか 
①「問題教師」はどこにでもいる
/生徒におびえる教師
/「わいせつ教師」も身近な問題
/自覚なき無責任
②「学校の常識」は非常識か
/「敬語を使えない」教師
/「身内に敬語」外部の人に隠語の使用
/互いに「先生」と呼び合う不自然な習慣
/当たり前の「気遣い」ができない
/本を読まず、言葉を知らない教師
/教師に「人間力」を
③ダメ教師の現実
/「生活科」「総合学習」に戸惑う教師
/失われた「板書」と、頼られる「マニュアル」
/流行で方向転換する「指導方針」
/「塾講師」に教え方を学ぶ教師
/子供を叱れない教師と「体罰の基準」
/「教師」を名乗れない教師
/絶対的存在ではなくなった
④教師格差拡大
/学校現場と「2007年問題」
/教員採用試験の競争率低下の意味

第二章 「逆風」にさらされる教師 
①教師と親の終わりなき闘い
/教師は「聖職」ではなくなった!?
/「困った親」の困った要求
/”ダブルモンスター化”する親
/「給食費」を払わない親が激増!
/教師をバカにする親
②時間との闘い!教育委員会との闘い!
/「セブンイレブン」と呼ばれる教頭職
/”調査漬け”にされる教師
/”いじめ隠し”報道が生み出す悲劇
/教育委員会は学校の見方か、敵か
/授業意外にも教師たちには仕事が一杯
/教師の人間関係を壊す「評価システム」
/学校の「組織改革」が教師と子供に与える影響
/現場教師の「切実な声」
/それでも、教師はやめられない
③子供を教師から奪う改正教育基本法
/教師は”法令執行人”か
/求められるのは、子供の”調教力”か
/”新たな足枷”はもういらない

第三章 教師の条件 
①教師と言う仕事
/「学校教師」と「塾講師」の違い
/「校務分掌」の大きな役割
/見直すべき「学校力」
②教師像の現実と理想
/「いじめ自殺」と教師の姿
/教師がいじめを招く
/親たちが教師に期待すること
/好きな先生の条件
/緊張感あふれる関係
/「同僚性」「共同性」崩す、目標管理型評価
/「企業ごっこ」の学校現場
/”現場離れ”の不任期評価システム
/学校現場は「教師の大学院」
③何が教師に求められているのか
/理想の教師像
/子供の目線
/こんな先生が好きだった!
/こんな先生は嫌いだ
/子供が認定する「不適切教員」
/今、学校と教師の役割を捉えなおす時

第四章 「教育再生論議」に見る、教師の未来 
①動き始めてしまった!教育再生会議
/誕生と共に見えてきた、教育再生会議の方向性
/教育再生会議が示す「提言」と「緊急対応法」
/世論とのギャップ?
/教育再生会議の方向性
②「教員免許更新制」の問題点
/早急に必要な「問題教師の排除」
/教員免許の更新性への疑問
/「問題教師」=「指導力不足教師」とはならない
/莫大な税金投入への「見返り」とは
③「いじめ問題」への処方箋
/教師同士がいじめ解決の相談をしない理由
/成果主義は「教育現場の財産」を奪う
/いじめの「第三次ピーク期」
/いじめの「隠蔽体質」を育てた元凶
/「いじめ問題への緊急提言」とは
/教育再生会議の「緊急提言」に対する筆者の緊急提言
/国家レベルの会議から説教、注文
/後退する「国民の教育権」
④「学級崩壊」「ゆとり教育」への誤解を解く鍵
/教職員団体と”同僚性”の相関関係
/「学級崩壊」を防ぐために必要な”同僚性”
/「授業時数アップ」に関する誤解
/「子供抜き」で語られてきた教育論
/教育現場の「絶望的状況」を救うもの

第五章 「教育再生」への提言
①ビジョンが見えない「教育改革」の扉
/教育再生に「対症療法」はない
/「失われたビジョン」を求めて
/国よりも明確な「親の子育てビジョン」
/「競争」ではなく”共創”を
/現場教師による「子供の学寮」の受け止め方
/作られた?「親たちの不安」
/「学力向上」という大目的
②現実に押し寄せる「教育格差」
/「家の経済状態」と「学力」の関係
/”上流層”の教育観
/「習熟度別学習」の問題点
/習熟度別学習は「差別」と「指導力低下」をもたらすか
/「学校選択制」への疑問
③「教育再生」は必ずできる
/「教育改革」に求められるものは
/教員志望者がいなくなる?
/「現場のパワー」を活かす条件整備を
/国と教育と予算の関係
/教育は「商品」ではない

おわりに
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2015年5月9日土曜日

対話の相手を持つ幸せ

年齢に応じ自分が話したい相手を、自分が思うように受け取り、対話が可能な相手がいることは幸せな歳の重ね方なのだと改めて思う。

人間、歳を取れば取るほど、色々なことを経験し、色々なものを学び、色々なことを考えてくるものである。当然、その過ごした時間によって、自分の意見や考え方もできてくる。真面目に生きていれば生きているほど、自分が過ごした時間とその間に考えたことを今度は誰かに語って聞かせたくなるものであろう。

その聞かせる相手というのは、学校で先生と生徒という関係であったり、会社で上司と部下という関係であったり、家庭で夫婦や子供との間であったり、または友人間でのやり取りであるかもしれない。

もっと多くの人に聞いてもらいたいと思う欲求を向ける先は、現代であるならば、ブログでつづる文章になったりすることもあるだろう。

しかし、もっと多くの人に読んでもらいたいと思う人、もしくは周囲からその貴重な知識や考えを世の中に広めるべきだと声がかかる人には、やはり今までの様に、講演や書籍という形でその考えが世に広まっていく。

歳を重ね、社会的地位が高まれば、自分が考えていることを本という形で世に出すことがより容易になっていく人もいるのであろうが、本当に幸福なのは自分が伝えたいという内容を、自分が伝えたいと思う相手、もしくはそれを正しく受け取ってくれるであろう相手に向けて発することが出来ることだろうと思わずにいられない。

そのタイトルに引かれ手にとった本も、読んで見ると「これをわざわざ世に発する必要が本当にあったのか?本にする必要が本当に重要だと著者が真剣に考えていたのか?」と思うような内容の本に出くわした時の失望は相当に大きい。

夫婦でも、職場でも、友人でも、自ら年齢を重ね、自ら積み重ねる経験や知識に比例して、思考する内容を共に共有し、対話を重ねることのできる相手が身近にいる。そんな歳の重ね方をしたいものである。

2015年5月8日金曜日

身勝手な運転と分銅

この国の運転マナーは本当に酷い。「悪い」というレベルではなく、「自分以外にも運転している人がこの道路にはいる」という事実を全く無視したかのように、「この道路は自分しか使っていない」と言わんばかりの運転が本当に多い。

運転していると突然横の車線で走っていた車がウインカーを出さずに車線変更をしてくるなんていうのはざらにある話である。その際に後ろの車がどんな速度で走っているか、どの様な動きをしそうか、などという気遣いなどは皆無であり、ただただ「自分が車線変更をしたかったからした」というレベルの行動である。

走っていた車線のさらに外側に路上駐車してある車がいて、それを避けるために自転車用車線を走っていた自転車や電気自転車が車道にはみ出してきたからそれを避けるために急遽車線変更をせざるを得なかったのかもしれない。

若しくは、さらに外側を走っている車がこれまたウインカーも出さずにいきなり車線変更してきたからぶつかるのを避けるために否応なしに車線変更をする必要に迫られ、ウインカーを出したり、後方確認をする余裕がなかったのかもしれない。

そんな「・・かもしれない・・・」と希望的観測に立った捉え方をしてもそれが何十回続けば「そんなことはなく、ただただ自己中心的な行動なだけである」という結論に達するには十分である。

自分の身勝手な行動が、他の人にどれだけ危険な目にあわせたり、煩わせたりするかは全く考えない。それがここの基本のようである。

そんな身勝手な行動が、周囲の車を危険に併せたり、煩わせたりするだけではなく、局所的に不必要な渋滞を生じさせ、それが積もりに積もり全体的な慢性的渋滞に繋がっていく。各自が少しだけ「どうぞどうぞ」と周囲に気を遣うことができれば、全体としてなんとかバランスを保つことができるのだろうが、誰もそんな献身的な心は持ち合わせていない。

そんな訳で自分勝手な運転で、周囲に迷惑をかけ、それを省みない様なドライビングを見ると、なんとか報いを受けてほしいと思ってしまう。真面目に生きている人間が馬鹿を見る社会はやはりおかしいはずである。

かつて学校の理科の実験で使った秤。それに乗せる精密分銅。

それを大きくして、あたかも「キング・ザ・100トン」な巨大な鉄の錘が空から降ってきて、身勝手で周囲に迷惑をかける運転をした車を「自業自得」と「くしゃり」と潰していく。そんな妄想を膨らませることでなんとかこのストレスを自らの脳内で消化することで、なんとか心のバランスを取ることにする。