2015年3月6日金曜日

反射的な過ごし方

すっかり間が開いてしまった。
やはりブログを書くには精神的余裕と、物理的時間が必要だと改めて実感する。

過ごした時間を改めて積極的に見直すことが出来ないということは、積極的に日常を生きているというよりも、ただただ流れてくるものを対して反射的に生きているようなものだと思う。

目の前に現れる問題や困難を処理する。
様々なストレスを解消すべく、できることを考え実行する。
時間を使ってしっかりと思考してメールをするよりも、ただただ未処理事項を一つ解消するための打つメール。

人々の生活をより豊かにするために発達したテクノロジー。
そのテクノロジーのお陰で我々人間の能力と身体は拡張されたことは間違いない。
ただし、CPUの処理速度が進歩するのと歩調を合わせ、日々の業務で処理すべき事柄の数もまた増加する一方。
人が介在しなければいけない作業である限り、物理的な人の作業と何よりも一つ一つに費やさなれければいけない思考の時間はどうしても圧縮することは出来ず、増加する処理すべき事象と物理的存在である一人の人間の思考速度との間には大きな偏差が生まれることは止むを得ない。

「情報」に翻弄される現代。

「忙しき日常」に少しでも足元をすくわれると、「あっ」という間にその情報の渦の中に吸い込まれ、「引き出しに仕舞う」ことも、「ライフログという糸」を紡ぐこともできずに、ただただ「消えた時間」の前で呆然と立ち尽くし、反射的にその日一日を過ごすのみ。

「喜怒哀楽」という反射的な感情のみに支配される1日。その繰り返し。
その中で人の理性はただただ麻痺し、弾性力を失っていく。

情報社会の中でメディアに流され、踊らされ、自分が何をしたいのか、何をしているのかさえ考えることのない、動物的な日常を送ってゆく。思考を失い、語彙を失うその先には感情さえも失っていく。

そんな危険な反射的な過ごし方から逃れるためには、やはり「記憶の整理」をし、積極的に「忘れていく」ことが必要となる。その為の最も有力な手段として感情や記憶をしっかりと自分の身体から外部化し、いつでもそこにアクセスできるようにログにて管理するブログの有効性はあと数十年近くは続くものと思われる。

そのためにできるだけ「やり残し」を作らずに、簡潔にでも言語化していく作業を貸していくことが必要だろう。

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