2013年11月3日日曜日

ブックオフ文化論

今日は文化の日。しかも日曜日。

しかしここではそんなことは関係なく、朝9時半から現在進行中の全てのプロジェクトのチェックをするために、パートナーと一緒に各プロジェクトの担当者を時間ごとに集めてレビューをする。その為に朝早くから電動スクーターでオフィスに向かう。

オフィスの自転車置き場にスクーターを入れようと思うが、その前にトラックが止まり、進入路を荷台から降ろした荷物で占拠している。その前にはイタリア人のスタッフが自転車にまたがり困った様子。

民度

という言葉が良く聞かれた2012年。その言葉が一体何を現すのかはよく分からないが、それがもし何かしらの文化的意味を含むのならば、民度の高さと言うのは、如何に自分以外の人のことを考えて行動できるか?なのではと思わずにいられない。

この国で生きていると、この国の国民にはその感覚の開きがとてつもなく大きいのに驚く。上記の例なら、「誰か作業中に自転車置き場に行く人がいるかもしれないから、通れるようにここは荷物を置かないようにしよう」とは考えないのだと想像する。それよりも、とにかく自分の仕事を終えることだけを考えて行動する。分母が大きいだけに、同じ比率でもそういう人間の数がとてつもなく多くなることになる。

それに比べ日本はかなりの所でそのルールが比較的しっかりしている。それぞれが属する組織に置いて、競争原理も働くのだろうが、人に迷惑にならないことがかなり基礎として組み込まれている。

これは建築現場にいってもよく感じることになる。日本の現場だとどんなに小さな現場の小さな工務店の職人さんでも、作業工程を考えて、他の職人さんに迷惑をかけないように非常に綺麗に養生を行い道具や建材を整理整頓している。これと同じことは決してこの国では期待できない。

しかしそれが一体民度というものなのだろうか?と考える。と同時に比率的に考えていけば、日本でもある一定数は必ず他人の迷惑を顧みずに行動をする人間も相当するいるのだとも思う。そんなことを思いながらなんとかスクーターと所定の位置に停めてオフィスの階段を上がりながら、それでも民度と言う概念が存在するならば、それはやはりその国の国民の読書量に比例するのだろうと考える。

恐らく世界どの国と比べても、日本の読書習慣はずば抜けていると思わずにいられない。この国では街中で本屋を見かけることも無ければ、電車やバスの中で読書に耽る人の姿を見かけることも少ない。それに比べて日本では電車に乗れば多くの人間がブックカバーをかけた小説に夢中になっている。一時間近く拘束される満員電車ではそれ以外できることがないというのもある種の強制要素になっているかもしれないが、それにしても日本人は良く本を読む民族である。


その民族の一員として毎回日本に戻るたびに心に決めることがある。「今回は本を買わずに、今ある本をまずは読んでいこう。それが消化されたら次に欲しい本を買う」と。しかし、その誓いも日本滞在中に必ず破られることになる。その誘惑は大概ブックオフの100円コーナーによってもたらされる。

東京に住んでいる数年の間、数ヶ月に一度は東京都内にあるブックオフの大型店舗を梯子していた。まずは近場の白金高輪から、五反田。渋谷、代々木、高田馬場に最後はなんといっても秋葉原。

まずどこに向かうかというと、小説の100円コーナー。ここの棚からならどれだけ手に取ってもいいという安心感から、気になったものはとにかく手提げかごへと入れていく。「あ」のコーナーから、阿川、芥川、恩田・・・と進み、上から下へしゃがんでは横にずれ、再度上へと向かっていく。タイトルと著者名を両方追いながらできるだけ焦点を合わせずにボーっと流していく感覚。

肩掛けバッグが邪魔になるほどの通路幅は恐らく普通の本屋よりも狭い通路設計になっており、その為に他の客の邪魔にならないように周囲にも注意を払いながら、なんとか時代小説ゾーンをクリアする。そして今度は新書コーナーへ。岩波、講談社・・・と追っていき、普段ネットで売れ筋のタイトルを調べておいて、頭に残っているタイトルが引っかかったら片っ端からかごの中へ。

その後余裕があれば一般小説へ。「あ」から始め、今度は値札を確認しながら再度一般の新書コーナーへ。大型店でここら辺までくると結構目が疲れるので休みを取りながら進めていく。

大きな店舗だとタイムセールなどがあるので、時間にも気を配りながら背表紙を追っていく。更に買って出てきたサービス券がもらえることもあるので、何冊からは境界線上として棚においてレジに向かうことになる。

そんなことを繰り返していると、どうしても考えることになるブックオフという文化論。古本屋というシステムから脱却し完全に新しい流通システムを作り出したブックオフ。それは本来なら自宅の本棚に永遠に眠り続けていたか、それとも捨てられることになっていた決して日の目を浴びることの無かったはずの本に光を当て、自宅の本棚が最終到着地でなくしてしまい、更にその先に流通のトンネルを作り出したその功績は非常に大きい。そしてそれが成功したのは上記にある日本に根付く読書文化であるのは間違いない。

全国展開をしながらも、本という物質を扱うためにローカルでモノが流れるシステム。更に面白いのは、顔の見えない個人が収蔵していた本の中で、その本を自宅に所有している必要がないと判断する人達がいることがこのビジネスの成立条件。

なんと言っても自分の様に本に線を引きながら読む習慣がついてしまった人間、つまり一度購入した本を、何があっても「売る」とか「手放す」ということを考えない人間ばかりでは成立しない。

「一度読んだからいいや」とか「面白くなかったから売ってしまおう」という考えの人がその本棚を解放し、本が流れ出す。その足が向く先は神保町や早稲田の古本屋ではなく、カラリと乾いた現代を代弁するブックオフ。

そこで面白いのは、東京に住んでいる人の本棚にあった本は、決して大阪のブックオフには並ばないということ。つまりはローカルの領域の制限が発生し、ブックオフの棚には、ある種のその生活圏の文化度が透けて見えてくるということ。

上記の様に本を手放さない人たちばかり住んでいる地域では、ブックオフ自体が成立しない。なのである程度の読書習慣を持った人達が多く住んでいる場所、もしくはそういう人が職場や乗り換え場として利用する場所であることが必要となる。

つまりはそこを生活圏内とする人たちの本棚から溢れてきた本たちがブックオフの本棚に並び、更にそこからも溢れて過剰となったもの本たちが100円コーナーに並んでいることになる。その地域の読書体験の濾過された結晶がこの100円コーナーに並ぶ背表紙かと思うと、なんとも感慨深く思わずにいられない。

そうして見ていくと、各店舗によって並ぶ背表紙は相当異なる様子を現すことに気がつく。欲しいと思っていたあの本が、A店舗では一般コーナーで350円だったにも関わらずB店舗では100円コーナーに置かれている。それはB店舗の地域に住む人たちがこの本に価値を見出してないからなのか、それともあまりにも多くの人が読み、売ったために供給過多に陥っているからなのかは、他に並ぶ本のタイトルを見れば大体分かるようになる。

本棚の前を移動しながら、そんな妄想じみたことを考えながら目の疲労を誤魔化そうとしているが、そんなことを繰り返しているうちに大体行きつけのブックオフの本棚の内容を網羅していく。そうなると本棚のラインアップが変わるのはなかなか頻繁には期待できず、それよりも違う地域に言ったら必ずブックオフに足を運ぶようになる。

川崎、川口、大宮、北千住、幡ケ谷、熊本に地元。場所によっては何年か前にバカ売れした誰でも読んだ様なベストセラーば何冊も100円コーナーに並び、その他は何十年も前の本くらいしか見るものがないといったところや、ほとんどが小中学生のマンガのリサイクル場となっているところがあるかと思いや、都内では期待できない思いもよらぬ掘り出し物を見つけることのできるところもあったりする。

そんな背表紙の群れを見ながら、その土地に流れる読書の習慣と培われた民度を思わずにいられない。そんなことを思いながら過ごし2013年の文化の日。

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