2013年7月18日木曜日

比叡山延暦寺 東塔(とうどう) ★★★ 788


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所在地  滋賀県大津市坂本本町
山号 比叡山
宗派  天台宗
寺格 総本山
創建   788
開基 最澄
別称 比叡山、叡山
機能   寺社
建築文化財 根本中堂(国宝)
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百寺
世界遺産
日本の建築空間掲載  根本中堂( こんぽんちゅうどう)1641
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比叡山延暦寺。

日本人であれば必ず一度は耳にしたことのある名前。

エリートとしての最澄とアウトローとしての空海の対立。
信長の焼き討ちによる怨念じみたイメージ。
何か不服があると暴れ坊主がすぐに山から都に降りてきては暴れまくる姿。
山の中に一種の独立国家のように俗世から離された距離。
他の仏教宗派を立ち上げる開祖が学んだ場所。

などなど、様々なイメージがオーバーラップし、どうにもつかみどころがないのがこのお寺。お寺と読んでいいのかどうかもいまいち分からないほどの存在。

伊勢と出雲で沸く2013年の日本。同じように比叡山と高野山も間違いなく今の日本の風景を作るのに寄与してきた大きな仏教の聖地。そんな訳で今回の巡礼の最大の目的地の一つである比叡山に向かって、麓の日吉大社より車で山を上がっていく。

標高848mと言うだけあって、相当急勾配の道を上がっていくと、暫くして比叡山ドライブウェイの田の谷峠ゲートが見えてくる。事前に調べたところ、随分高い値段を取られるようなので、ホームページから割引チケットを印刷しておいたのだがうっかり忘れてきたことを思い出す。

「それにしても参拝に行くのに有料道路を通らないといけないとは・・・」と思いながらもチケットを受け取り、先に進むと、なかなかの峠道。ハンドルを10時10分に持ち直し、対向車も後続車も無いドライブウェイをひたすら集中して走っていく。

やっと見えてきたのが「東塔」の文字と巨大な駐車場。この時点では延暦寺がどれだけの広さを持ち、どんな伽藍配置になっていて、どれだけの参拝時間がかかるのか、また参拝時間はいつまでかを把握していないので、タオルを首にまき、急いで参拝受付所に向かう。

なんでも比叡山の山内は「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」と呼ばれる3つのエリアに分かれており、ここはその中でもメインである「東塔(とうどう)」エリアの入り口らしい。通常この三つのエリアを総称して「三塔」と呼ぶという。そんな訳で3塔共通の参拝チケットを550円で購入し、「このエリアを見るのにどれくらいかかるか?他のエリアも一緒に見ようと思ったらどれくらいかかるか?」を聞くと、「参拝時間が16時30分までで、今が15時10分だから三つを見ようとするのは厳しいかも」という。ほとんどの観光客はこの「東塔」エリアを見て、延暦寺を見たということにしているらしい。そしてこの「東塔」だけでも40分くらいはかかるだろう、車で来ているなら「西塔」は車で5分の距離なので行けるかも、「横川」はちょっと離れているので厳しいと思うなどを聞き出して、早速伽藍へと向かうことにする。


この延暦寺は比叡山全域を境内とする巨大寺院で、延暦寺の名より比叡山、また叡山(えいざん)と呼ばれることが多いという。平安京の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称される。もちろん開祖は平安時代初期の最澄(767年-822年)で、日本天台宗の本山寺院である。住職は天台座主(てんだいざす)と呼ばている。

最澄の開創以来、空海の開いた高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であり、天台法華の教えのほか、密教、禅、念仏も行なわれ仏教の総合大学の位置づけで、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持つ。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれライバル争いを繰り広げた。

そして延暦寺とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称であり、延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の824年のことだという。

桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。これは後の江戸の都市計画にも繋がっていくことになる。


延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍を始め下記の著名な層を輩出している。

良源(慈恵大師、912年 - 985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖
法然(円光大師、1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。
道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖

新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称さる。

様々な小説で語られるように、様々な僧が、理想の仏教の姿とは何か?に悩み、熱い議論を重ね、仏陀の教えとは何か?を考え抜き、自分に向き合うために厳しい修行の為にこの山の中を何度も何度も歩き回ったのだろうと想像する。


開祖最澄は朝廷から派遣される形で、805年遣唐使船で唐に渡り、霊地・天台山にて、天台大師智顗(ちぎ)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒を、行満座主から天台教学を学ぶ。それだけではなく、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教を翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んでいる。

結果、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想を全て学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の功績で、その為に延暦寺は総合大学としての性格を持つことができた。そして後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出することになる。

806年に日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願である比叡山に大乗戒壇を設立すること、つまり奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにすることは、最澄の死後に許可される。

延暦寺といえば、「坊主の武力」というイメージが強いが、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と恐れたと言う。この中の「山」は比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。

この言葉に代表されるように、延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿をかついで強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの言い分を通していたという。

また、祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の戦争により延暦寺がその末寺とした。このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態であった。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び称せられ、南都北嶺と恐れられたという。

そんな訳なので他の権力者からは時に気に食わない存在となる。そして武に秀でた権力者は延暦寺を制圧しようと試みる。初めてその試みに踏み切った権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教である。この義教は将軍就任前は義円と名乗り、天台座主として比叡山側の長であったが、還俗・将軍就任後は比叡山と対立したというから何とも狭い世界でやり取りが行われていたということだ。

また有名なのは、戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。信長は武力と権力をもつ仏教勢力は日本統一の邪魔になると考えて、1571年延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて延暦寺を取り囲み焼き討ちを行う。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害される。

しかし信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建された。家康の死後には、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されてからは、天台宗の宗務の実権は江戸に移されるが、現在は比叡山に戻っている。


そんな長い長い歴史を後ほど、「なるほど・・・」と復習するのだが、そんな複雑で政治的な背景などいざ知らず、緩やかな坂道をのんびりあるく高齢者観光客をさっさと追い抜き、左手に見えてくるのは巨大な大講堂。1634年の建築物で重要文化財に指定されている。旧大講堂は1956年に火災で焼失し、もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に移築したという。本尊である大日如来の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍など若い頃延暦寺で修行した高僧の像が安置されている。

大講堂を参拝し、階段を下りて左に折れると更に長い階段をおりてたどり着くのはこの東塔を東塔足らしめる建築。延暦寺発祥の地であり、延暦寺の総本堂にあたる根本中堂(こんぽんちゅうどう・国宝)。最澄が建立した一乗止観院の後身であり、現在の建物は織田信長焼き討ちの後、1642年に徳川家光によって再建されたものである。

比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂といい、比叡山では東塔という区域の中心的建築物である。入母屋造の大建築である。なんでも日本で3番目に大きな木造建築だという。

南側に中庭が配置される寝殿造で、堂内は外陣・中陣・内陣に分かれ、本尊を安置している内陣は中陣や外陣より3mも低い石敷きの土間となっており、内陣は僧侶が読経・修法する場所でなる。暗い本堂の中で、更に奈落に落ちていくような内陣の深さ。その闇。その中に「ぼぅ」と揺らめく蝋燭の光。「何か独特な空気が漂っている」と感じるに十分なその空間。本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続くといわれる「不滅の法灯」という。

天台宗の伽藍はなかなか足を運ぶことが無かったので、この空間で護摩を焚き、煙の中で経を唱えている姿を想像すると、なんだか身体が震えるような思いに駆られる。1000年を超えるこの場所の力を感じ外に出て、向かいの急勾配の階段を登り再度見下ろす根本中堂。

その後、阿弥陀堂、東塔を朱色の建物を見て回り、時計を気にしながら、「せっかく延暦寺に来たのだから、一般的なルートで終わるよりはせめて西塔まで・・・」と駆け足で車に戻ることにする。
















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