2017年6月22日木曜日

ウィリアム・モリスミュージアム(William Morris Gallery) 1950 ★★★



丸二日におよぶエクスターナル・イグザミナー(External Examination)の責務を終えて、重圧から解放されやっと本格的にロンドンを楽しむことができる日がやってくる。昨年、V&Aを訪れて依頼、日本に帰って妻が購入した「大人の塗り絵」はウィリアム・モリス(William Morris) の壁紙のもの。すっかりお気に入りになった模様で、それならばと足を運んだのがロンドンの郊外、東北方向のウォルサムストウ(Walthamstow)に位置するウィリアム・モリスミュージアム(William Morris Gallery) 。

ここはウィリアム・モリス(William Morris) がその幼少期、家族とともに過ごした家をモリスの生涯の功績が分かるように美術館として公開している場所である。1834年生まれのもリスであるから、正確に言うと14歳(1848)から22歳(1856)まで過ごしたというから、大人へと成長する多感な時期を自然に囲まれたこの場所で過ごしたという訳である。

さて、ウィリアム・モリスといえば、日本でも広く知られ、アーツ・アンド・クラフツ運動の主導者としても有名である。裕福な家庭の子息として生まれ、オックスフォード大学で聖職者となるべく勉学に励む。しかし時代は18世紀に始まった産業革命の影響が、社会の隅々まで広がりつつある時代。膨大な父親からの遺産を手に入れ、その資金で友人とフランスなど様々な場所を見てまわるなかで、聖職者ではなく、芸術家としての道を目指すようになっていく。

「建築の七燈」の著者であるジョン・ラスキン(John Ruskin)に多大な影響を受け、建築家への道に進み、入所した事務所で生涯の友となるフィリップ・ウェッブ(Philip Webb)と出会い、ウェッブが設計したレッド・ハウス(Red House)で生活をはじめる。

産業革命の影響で、人の手の痕跡が消された工場で大量に生産される商品が溢れるロンドンの日常を嘆き、職人の職場からモノをつくる喜びは手仕事のへの敬意も失われつつある現状をどうにか食い止めたいという思いで、より広い意味で美しいデザインを社会に提供する為にと、自ら出資者として

ヴィクトリア朝のイギリスでは産業革命の成果により工場で大量生産された商品があふれるようになった。反面、かつての職人はプロレタリアートになり、労働の喜びや手仕事の美しさも失われてしまったモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立し、家具やステンドグラスを中心に商品を提供するようになる。

しかし、拘りの強い人間であればあるほど、初めはいいが、徐々に仲間との間に亀裂が入り、モリス・マーシャル・フォークナー商会を解散し、自分一人の信念を貫徹できるようにと、自らモリス商会(Morris & Co.)を設立する。

日本の民藝運動を起こした柳宗悦(やなぎむねよし、そうえつ)が1889年生まれで、北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)が1883年生まれということで、モリスの起こしたアーツ・アンド・クラフツ運動、手仕事の美しさへの再評価が50年の時間を越えて、何かしらの影響を日本にもたらしたのは間違いなく、その功績は非常に大きい。

実業家として成功したモリスは、生活に芸術を浸透させるために、社会を変えることが必要だということで、50歳前後から徐々にマルクス主義へと傾倒していき、社会主義同盟を結成し、前後して本格的にアーツ・アンド・クラフツ運動を世に広めていくことになる。

ロンドン中心に位置する百貨店・リバティ。その創業者であるアーサー・リバティはモリスと同年代に生まれ、その活動を深く支持した一人でもあった。その為にリバティを代表するリバティプリントの多くには、モリス商会のデザインが採用されている訳である。

それに限らず、イギリス国内で時間を過ごしていると、街の様々な場所で、生活の様々な場面でモリス柄に出会うことになる。それほど、深く社会に受け入れられ、本当の意味で芸術を生活の中に浸透することに成功した偉大な社会芸術家であるモリス。

その生涯の活動と信条を丁寧に、そして実物とともにじっくりを理解することができる展示が、人生の各年代ごとに分けられ展開する。一階一部には、後ろに広がる広大なLloyd Parkに面した気持ちのいいテラスを持つカフェが併設されており、そこでゆっくりとイングリッシュ・ティーを頂くのもまた気持ちがいいものである。


















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