2016年11月10日木曜日

スイス学生館(Swiss pavilion) ル・コルビュジェ(Le Corbusier) 1932 ★★★



ブラジル学生館を見学した後は道を挟んですぐ近くに位置するスイス学生館(Swiss pavilion) へ。同じ建築家の作品ということでつい一緒くたにしてしまいがちであるが、この二つの建物設計にはおよそ25年、つまり四半世紀の隔たりがあるということ。

1932 スイス学生館(Swiss pavilion)  
1959 ブラジル学生館(Maison du Brésil)

それまでは個人住宅ばかりを設計していたル・コルビュジェ(Le Corbusier) が初めて手にした公共建築。それがこのスイス学生館(Swiss pavilion) 。その後様々な集合住宅を手がけ、名声を手にし、NYでは国連本部の設計を手がけ、自ら長年追い求めた理想の集合住宅のあり方として、1952年にマルセイユにてユニテ・ダビタシオンを完成させ、さらに傑作と言われるロンシャンの礼拝堂を1955に完成させたのちに、ラ・トゥーレット修道院、東京の国立西洋美術館と時期を同じくして設計が進められていたと思われるのがブラジル学生館。

なのでこの二つの建物の間には、20世紀の巨匠と呼ばれるコルビュジェの設計理念の発展の軌跡が読み解けるはずであり、その為にさらっと見終えてしまいがちであるが、それをあらためて消化し、自分なりの理解としておくことは、建築を生業とするものとして非常に大切な作業であろう。

自らが提唱した近代建築の五原則、つまりピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面。これらを見事に体現するサヴォア邸を完成させたのが1931年。自らと近代建築が向かう先を明確に捉えていたコルビュジェの元に舞い込んだ自らの母国スイスの学生寮の仕事。初めてとなる公共性を備えた規模の建物。1887年生まれのコルビュジェは当時すでに45歳。満を持して公共建築へとその活躍の場を広げていくことになるメルクマークとなる作品であり、コルビュジェ自体の気合の入り方も相当なものだったと想像する。

あくまでも近代建築の五原則の延長線上に、いかに経済性にのっとりながら、集って住まうことの豊かさを実現できるか。そこに新しいより過密化する都市の中の一つの時代のタイポロジーとして新しい集合住宅の祖形をいかに作り上げるか。南に向けて配置される住ユニットは最小限の空間としながらも、内装をシャルロット・ペリアン(Charlotte Perriand)が手がけて、非常にコンパクトでありながらも快適な個室空間が並列され、大きく取られた南側の開口部と、廊下が並ぶ北側の開口部によって前後の表情が作り出され、その積み上げられたブロックを地盤面から持ち上げることで、開放感のある空間に透明感を損なうことなくガラスのボリュームが挿入され、エントランスホールや応接室などの公共空間を作り出す。

これらの空間は上部を支える構造的制約から解法されているということを可視化する必要があるといわんばかりに、曲線を多用した変化に富んだ空間がモデュールが重ねられどうしても単調になりがちな表現に、心地よいリズムを加えてくれる。

応接間や階段をのぼり、廊下までのやや広い空間に置かれたベンチなど、それぞれの場所に設置される備え付け家具が「これでもか」と言わんばかりに空間と対応する素晴らしいデザインを施されている。そして応接室の壁にはコルビュジェ自身の手によるという巨大な壁画。上記のコルビュジェの置かれた状況を理解していれば、いかにコルビュジェが並々ならぬ思いをもってこのプロジェクトに向き合っていたかが手に取るように見て取れる。赤字になろうがなんだろうが、どうしてもこのプロジェクトは納得するまでやりこむんだと。

ちなみにこちらも玄関ベルを押し、品の良さそうな管理人さんに数ユーロの見学料を支払うと、パンフレットを渡してくれて、こちらは2階にある105号室だけ見学可能で、当時のままの状態を保っているという。

見学を終えて、40代を向かえ脂の乗ってきたコルビュジェがそのマッチョな情熱を前面に出して横で話しかけてきているような気持ちになりながら、建築を生業にしたことを良かったと再度思いながら駅へと足を向けることにする。




パリ14区























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