2015年3月7日土曜日

身体を通しての認知

写真やインターネットでエッフェル塔を見ても、「あ、エッフェル塔だ」としか感じないが、しかし実際そこに身を置き見上げる時に感じる「おおっ」というあの感覚は一体何なのかと不思議に思う。

同じ様に、Google Mapで航空写真として見下ろすパリの街並み。それを見ても何とも感じないが、しかし着陸寸前の飛行機の窓から見下し、流れていく街の光としてパリの街並みを見るときに湧き上がる「おおっ」という感情は何なのだろう。

百科事典が限られた人の特権だった時代から時間は流れ、今では無料で無限の情報に触れることが出来るようになった。情報が限られていれば限られているほど、その情報に触れたときの感動は大きいはずであり、それが動画でも画像でもましてや活字であっても、その価値は相対的に決まっていたはずである。

それに対し現代では、世の中に存在するほとんどのものや景色はインターネットで検索すればほぼ目にすることが出来る。実際に自分が決していけないような場所や、顕微鏡の様にスケールの違う世界の様子も簡単に目にすることが出来る。

その「目にすることが出来る」ということを、実際に体験した、理解したと同様に感じてしまうこと。

そこに人の愚かさがあり、そこにこそ、例の「おおっ」という驚きが隠されているはずである。

人間がものを感じ、理解するのは決して視覚だけの問題ではなく、自分の身体や周囲の建物と比較して大きさを体感したり、その場に差し込む光の微妙な変化や、吹き抜けていく風のぬるさを感じること。そんな身体を使って感じることが本来の体感することである。

視覚に偏重した現代社会だからこそ、できるだけ身体を使って物事を感じること、物事を体感することの価値が高まり、同時にそうして身体を通して世界を認識することができるかどうか、その訓練を重ねてきたかどうかが、その人の感情の豊かさや想像力に比例していくのだろうと思わずにいられない。

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