2014年5月3日土曜日

北京の城門 内城城門

北京で生活をしていると、いたるところで「何々門」という「門」の付く地名が多いのに気が付く。そして道の名前も「何々門内街」や「何々門北街」など、基本的に「何々門」がまずあっての地名となっている。

それほど重要な位置を占めていたと思われるこの「門」達。しかし実際の風景でその門を見ることはほとんどできない。それだけに何となく分かった気になっているが、全体としてしっかり理解することは北京人でもなかなか難しいのではと思われる。

この「門」もまた、北京に散らばる「都市の数」。「九壇八廟」めぐりを終えたしまった今となっては、持って来いの次なるターゲットだということで、今日は午前中をかけて北京の城門の内城城門をぐるっと巡ることにする。

天安門や建国門、とにかく多い北京の城壁。これは元がこの地を大都として都として定めたる。その後王朝が明朝へと変わり、一時都が南京に移されたが、再度1402年に都が移されそのとき以来北京という名がこの都市に与えられることになる。それらの元・明朝時代に当時の都市の必須条件として防御の観点から築き上げられたのがこの城壁という。

北京に来たことがある人なら分かるだろうが、いわゆる現在の2環道路に沿っていくつもの門が左右対称に建っており、ここがかつての城壁であったのは理解できる。よく見て見るとこの2環道路、長安街を南下したあたりで見事に左右対称でうねっと外側に曲がって幅を広くしている。そして天壇公園を越えたところで閉じるようになっている。

その「うねっ」と広がるところに走る道。前門東大街や前門西大街と呼ばれる道だが、この道と2環道路で囲まれたエリアを囲うのが、北京の城門の中でも内城城門(内城城门)と呼ばれ、いわゆるこの内部がかつての「北京」の街であったという。ポイントはあくまでも天安門などが立ち並ぶ長安街ではないということ。そうなるとこの道が作られた時期が気になるが、やはり近代中国の建国後、戦争などの有事に備え、飛行機の滑走路としても使えるようにと道幅は100メートル以上として作られたのがこの長安街だという。

そんな訳で一つ閉じられた内城城門。その下の先ほど「うねっ」と広がったところから南で天壇公園などを含んだ2環道路に囲まれたエリアは何かというと、外城城門と呼ばれ、昔から北京の下町として親しまれてきたエリアだという。

じゃあ天安門などは何なんだ?となると、これは内城城門の中に更に皇帝の居住エリアを囲う城壁があり、そこに設けられたのが皇城城門と呼ばれ、天安門や地安門などである。ちなみに天安門は正式には承天門と呼ばれ、地安門は厚载門と呼ばれる。非常にややこしい。

更に皇居エリアの中でも極めて神域度の高い皇帝のエリアとしてお堀に囲われている場所に入るための4つの門。それらを宫城城門といい、午門や玄武門などがそれらにあたる。

そんな訳で異なるエリアと囲う城壁があり、それぞれに様々な門がカテゴライズされている訳である。もちろん天安門や午門など故宮付近の極めて重要な皇帝に関係する門は現代の北京でも見かけることができるが、それ以外の内城城門や外城城門の門はなぜないのかというと、これらは毛沢東が城壁を撤去したと言われている。

これは別に何かタブーのようにも言われるが、そんなことは無く古い王朝の匂いを消して新しい時代の首都に作り変えるという意図も合ったに違いないが、それでも城壁都市が兵器の進化に伴った、城壁が都市の防御に意味を成さなくなった近代において、都市をより機能的に改築するために城壁を壊して環状道路に作り変えるなど、パリなどでも行われたきわめて一般的な都市計画の手法である。

そういう訳で今日は東直門(东直门)を開始点として反時計回りに内城城門をめぐっていくことにする。まず全体の構成を把握しておくが、基本的に東西南北にそれぞれ三つずつの門がほぼ対称に配されている。というのも東と西はそれぞれ三つずつなので対称を構成できるが北は二つに対して南は三つなのでここで対象がずれてくる。

では何ですべて三つずつの対称形にしないのかというと、それは南の三つの真ん中の門、つまり正陽門(正阳门)、通称では前門(前门)と呼ばれる門が特別であるからである。

ちなみにすべての城門には独特な用途が与えられており、異なる類型の車両が通っていたので、「九門には九車が出でる」と言われていたというくらい意味があるんである。地図を見て見ると九門のなかでこの正陽門(前門)だけが中心の故宮を突っ切る都市軸に乗っているのが見て取れる。それからも分かるようにこの門は北京城九門の正門、つまり北京の正門とされていたのである。

そのお陰でこの正陽門(前門)は常に一番位の高い門であり、皇帝だけがこの門の出入りが許されていたという。では皇帝はこの門を出てどこに向かっていったのかというと、それは年に二度。一度は冬に天壇(天坛)て天を祀る時に。そしてもう一度は啓蟄(けいちつ)の時に先農壇(先农坛 xiān nóng tán)にて豊作を祈願する為という。

そんな訳で9という割り切れない不思議な数字の意味が見えてくる。日本の柱間で見てみると、奇数間であれば真ん中の軸線に沿っていけばそのまま通り抜けられる構成だが、偶数間となるとまっすぐ歩いていくと軸戦上に柱が立っていて、必然的に身体をどちらか片方にずらすことになる。そこに内と外との境界への意識が生まれてくる。これをつかっているのが法隆寺の中門。人を中に入れるよりは、中に安置してある聖徳太子の御霊を外に出さないようにと言われているが、これが建築の面白いところ。

そんなことを思いながら家から最寄の門である東直門(东直门 dōng zhí mén)から開始する。現代においては空港からの高速鉄道の到着駅として北京市内の顔ともなっているこの門。空港から高速道路を通って更に市の中心に向かおうとすると必ずこの門を通ることになる。つまりは外国からの要人はかならずこの風景を見ることになるので、オリンピックに向けてかなり近代的な高層オフィスビルが立ち並ぶ綺麗な町並みに変わった場所でもあり、時折警察によって一般の進入が封鎖されている場所でもある。

九門の一番北東に位置するこの門は、かつてはその外側に建物に使用するレンガを焼く施設があったために、市内にそのレンガを運ぶ車両が通る門とされていたという。ちなみに東直門から反時計回りに内城城門を見ていくと下記の様になる。

東直門(东直门 dōng zhí mén)
安定門(安定门 ān dìng mén)
徳勝門(德胜门 dé shèng mén)
西直門(西直门 xī zhí mén)
阜成門(阜成门 fù chéng mén)
復興門(复兴门 fù xīng mén)  内城新辟城门
宣武門(宣武门 xuān wǔ mén)
和平門(和平门 hé píng mén) 内城新辟城门
正陽門(正阳门 zhēng yáng mén)・前門(前门 qián mén)
水関門(水关门 shuǐ guān mén) 内城新辟城门
崇文門(崇文门 chóng wén mén)
建国門(建国门 jiàn guó mén)  内城新辟城门
朝陽門(朝阳门 cháo yáng mén)

九門という割には13あるじゃないかということになるが、これは1900年代に作られた内城新辟城门という4つの門(水関門、和平門、建国門、復興門)を加えて9+4で13ということらしい。

続いては安定門(安定门 ān dìng mén)。安定門は元々安貞門と呼ばれ、それが「天下安定」の意味で現在の安定門に読み名を変えられたという。中国語の説明では、

安定门也叫“生门”,有“丰裕”之意,所以皇帝要从此门出去到地坛祈祷丰年。安定门外的粪场比较多,因此粪车多从安定门出入。

とあり、皇帝が地壇(地坛)で祈祷をする時に通ったのがこの門であり、この門の外には肥やし場が多くあった為に、その肥やしを城内に運ぶ車が多く通った門という意味の用である。しかし東直門同様現在は門の痕跡すら見ることは出来ない。

そのまままっすぐ西に進むと徳勝門(德胜门 dé shèng mén)が見えてくる。この門は数少ない現在もその姿を見せてくれる城門の一つである。北京から北に向かう長距離バスのターミナルが近くにある為に多くの人でごった返している。その中を掻き分けて下まで到着すると、博物館になっているようなので中に入ってみる。城門の上まで上がり、上部の櫓の中に展示がされており、北京の城門の歴史などを見ることが出来る。

この徳勝門(德胜门 dé shèng mén)は軍隊が出入りする門であり、戦に勝ち凱旋してくることを祈願した意味が込められているという。ちなみに中国語では下記の様に説明されている。

明清军队凯旋时从此门入城,仁义之师要从此门出入,因此此门多出入兵车。德胜门也叫“修门”,有品德高尚之意。

続いて進んでいくと、東直門と対極の位置にある西直門(西直门 xī zhí mén)に到着する。こちらも東直門同様、すっかり門の痕跡はなく、北京の北西側に延びる路線の駅と、特徴的な3つ頭のオフィスとして再開発されている。

由于北京城内水质不佳,皇宫用水皆取自玉泉山,每天清晨,水车从西直门入城。因此西直门多走水车,其标志也就是瓮城的一块刻着水纹的石头。

とあるように、元々北京は大きな川が通っている場所ではなく、水の確保が難しい場所であり、皇居で使用する水は全て北京の西にある玉泉山から運ばれてきたという。その為、毎日水を乗せた車がこの門を通って北京の市内に入っていったという。

そこから今度は西2環道路を南に下りだし、すぐに到着するのが阜成門(阜成门 fù chéng mén)。下記の説明にあるように、石炭を取り出す西山から一番近い門であり、石炭を積んだ車がこの門を通って市内に入っていったという。

由于此门离西山最近,而西山门头沟出产的煤又是北京城里必不可少的燃料,故煤车都从此门进城。也因此,阜成门之标志是瓮城墙壁上刻着的一朵梅花。由于标志“梅”“煤”同音,老北京间有“阜成梅花报春暖”的说法。阜成门也叫“惊门”,有“公正”之意。

次は、内城新辟城门である復興門(复兴门 fù xīng mén)。流石に新しい門だけあって、他の門の様な物語はあまり無いようである。

また東に進み到着するのが、宣武門(宣武门 xuān wǔ mén)。この門は俗に「死門」と呼ばれていたらしく、多くの囚人がこの門を通り、門外の処刑場に送られていたからだという。

宣武门俗称「死门」,多走囚车。其原因是当时北京的墓地多在今陶然亭一带,所以送葬的人多出宣武门,清代的刑场在菜市口,押送死囚的车也出宣武门。宣武门的标志是报时的宣武午炮。

更に東に進むと、再度内城新辟城门である和平門(和平门 hé píng mén)。ここは門があったということがまったく感じられない場所になっている。

その次に来るのが九門の正門であり、多くの観光客で賑わう正陽門(正阳门 zhēng yáng mén)・前門(前门 qián mén)。最初に説明したとおり、ここは皇帝のみが通ることが許された門である。

次には内城新辟城门である水関門(水关门 shuǐ guān mén)。そしてその次が崇文門(崇文门 chóng wén mén)。ここの近くにある寺に鉄の亀が置かれており、その亀が海を鎮め、平和を守っていたという言い伝えがあるらしい。

この崇文門から次の建国門の間にかつての城門の痕跡が比較的良い状態で保存されている史跡公園が城壁に沿って細長くのびている。市民が散歩したりベンチに座っておしゃべりしたりと思い思いの過ごし方をしている。その東の端には城門の上に登れ、そこにあるのはかつての櫓を利用したアートギャラリーが入っている。

次の門は内城新辟城门である建国門(建国门 jiàn guó mén)であるが、ここには古代の天文台である「北京古観象台」がある。ここは明の時代である1442年に検察され、中には天文台の歴史が様々な観測器具の模型と共に見ることが出来る。

そして最後は朝陽門(朝阳门 cháo yáng mén)。ここは食料を運ぶ車が通ったとされる門であったという。もちろん現在はその面影はなく、日本でも新国立競技場の設計で話題となったかつての所属したザハ・ハディドのギャラクシー・SOHOが現代的な風景を作り出している。

と言う訳で結局城門が残っているのは徳勝門と正陽門・前門のみ。折角だから次は外城城門めぐりでも行こうかと流石に疲労を感じながらオフィスへと向かうことにする。

東直門(东直门)
東直門(东直门)
安定門(安定门)
安定門(安定门)
徳勝門(德胜门)













西直門(西直门)

阜成門(阜成门)

復興門(复兴门)


宣武門(宣武门)
和平門(和平门)

正陽門(正阳门)



水関門(水关门)


崇文門(崇文门)



















建国門(建国门)
朝陽門(朝阳门)


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