2014年3月15日土曜日

会話と話

中国人と結婚し上海郊外の无锡という街に移り住んだ元スタッフが北京に来るのでご飯でもどうだろうと誘ってくる。

あちらでの生活は非常にゆっくりしたもので、朝起きて本を読み、ご飯を作って自分のやりたいプロジェクトについて思いを巡らしパソコンに向かい、夜にはまた静かな環境で本を読むという日常を、「とても禅な時間だ」と表現する、ハーバード出身のインテリゲンチャ。

オフィスをやめてからほぼ一年をかけて世界を巡り、様々な経験をしたのちに、長く付き合っていた彼女を結婚をし、今は彼女の地元の街でほとんど外国人とも触れ合うことなく時間を過ごしているという。

せっかくなので妻もつれて、静かな日本料理屋に連れて行くが、とにかく自分の思っていることや好きな事をどんどん話してくる。今思い描いているプロジェクトや、都市の新しい認識の方法など、次から次へと言葉が出てくる。

そんな様子を見ていると、恐らく今の日常では、こういうことを面と向かって話す相手がいないのだろうと勝手に想像する。そんな彼の言葉を聞きながらも、こちらもあーだこーだといろんなアイデアを出して会話が盛り上がる。門外漢の妻も楽しみながら、あっという間に数時間過ぎてしまう。

これからもう一軒別の友人に会いに行くと颯爽と自転車で去っていく彼を見送り家路につきながら、こうして母国語ではなくても、話している内容を共有し、そのイメージを共有しながら会話ができること。その会話が想像力を掻き立てることができる相手がいることは人生の何よりの財産なのだと思う。

たまに顔を出す集まりなどでは、何とも表面的なことしか話さない。その人の人格の深いところに関わらない話、その人が人生でどんな時間を過ごしてきたか、どんなことを考えて日常を過ごしているか、どんな本を読んでいるのか、そんな本質が入ってこない内容の話が流れていく。

表面的といえばそれまでだが、なんともさらーっと滑っていく言葉ばかり。そんな話は排泄と同じであり、決して何かが違う意味になり返ってきて、それに自分の脳が刺激されるような会話にはなってこない。

そんな言葉の浪費に何の意味があるのだろうかと考えると、それはただの寂しさを紛らわせることなのかと考える。そういう心の弱さに流されず、一人でも自分の世界に向き合い、読書の中で様々な人と会話をし、そしてたまに同じ言葉で会話をする機会を楽しむ彼のような時間の過ごし方は、心の強さを要求する。

少なくてもいいから自分が会話できる友人を持ち、その友人の刺激になるように常に自分も向上をするために、心の弱さに流されず、寂しさを紛らわせるために時間を浪費しないようにと心を引き締めることにする。

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