2014年1月8日水曜日

総体化

朝、電動スクーターで通勤していると道路脇からいきなり「パッ」と人が飛び出してくる。そんなことは日常茶飯事。今朝はマンションの敷地から出る車止めのところに、配送に来ている郵便会社の三輪車が止めてあり、通路を塞いでしまっている。

恐らくこの三輪車の運転手に文句を言えば、「あぁ、気がつかなかった」とでも言うのだろう。自分の行動がどれだけ他の人に影響を与えるかをどれだけ考えて行動できるかが、その人の社会性の高さだと思わずにいられない。

オフィスに着けば、自転車置き場の入り口に堂々とスクーターが駐車してあり、中まで入れなくなっている。こんな事の繰り返しである。

どうもこの国では「世界には自分一人だけが生きている」と思い込んでいるのか、それとも周りの人は自分の安全の為に、どんなにスピードが出ていて危険でも、自分の為に急ブレーキをかけてくれると思っているのか知らないが、日本に比べたら格段に、左右の安全確認をせずに道を横切る傾向にあると判断せずにいられない。

自転車専用の道をスクーターで走っていたら、道端に駐車してる車のドアがいきなり開いて「ヒヤリ」とすることもしょっちゅうだし、ウインカーを出さずにいきなり車が動き出して「ドキリ」とすることもしょっちゅうである。

まるで交通弱者には人格が無いといわんばかりの振る舞いに、妻は「今度から常にかんしゃく玉を常備して、危ない振る舞いをした奴に投げつけてやろう」と鼻息を荒くしているが、恐らく小さな頃からそういう風にしつけられたり教えられてこなかったからなんだと思わずにいられない。

そんな振る舞いを見ると、どうしてもすぐに「中国人って・・・」と総体化してしまう。そして知り合いの中国人に、「どうして中国人ってこうなんだ?」と質問をしたくなってしまう。

頭の中では、「もちろん育った環境など個人差はあるのだろう・・・」と分かっているのだが、どうしても総体としての○○人として括ってしまう。

そうしてふと思う。

ついこの前もどこかの国の首相が、国際社会の批判を押し切って行った参拝。恐らく自分の信念に沿った行動だと自己肯定して悦に入っているのだろうと想像するが、個人の信条に個人の信条をぶつけても何の生産性もないが、天皇のご配慮も国際情勢もお構いなしに、責任ある立場にも関わらずこの行動はいかがなものかと思わずにいられない。

このような報道を見て、「やはり日本人は・・・」と思ってもらいたくないし、個人で違うとどんなに主張しても、やはり「日本人は・・・」と括られてしまう。

それが総体化して考える人間の性質。
しょうがないと受け入れるしかないのだろうか。

そんな風に思ってみると、スマホに気をとられ、周囲を確認することなく飛び出してくる中国人も、きっと個人的な様々な事情を抱えた家庭で育ち、複雑な人生を送った結果、こうして道に飛び出してきているんだと思うことにして、「かんしゃく玉」で危険を教えてあげたくなるのをぐっと我慢することにする。

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