2013年12月15日日曜日

「世界は分けてもわからない」 福岡伸一 2009 ★★


ハルビンで進めているオペラハウスのプロジェクトの為にもちろんであるが、そこで使う椅子のデザインも進めている。行政のプロジェクトなのでこれらの施行会社の決定プロセスが入札によって行われるのであるが、その為にもまずは椅子のモックアップ。つまりサンプルを作って見て、デザインを確認していく作業を進めている。

そんな中モックアップを作成してくれている椅子会社からある程度出来上がったのでチェックに来て欲しいというので、北京の南に位置する大兴区までチェックしにいくことにする。

中国人のプロジェクト・アーキテクトと担当者、そしてデザインを担当しているイタリア人のスタッフと一緒に車で1時間かかるその会社の工場兼ショールームまで向かうことにする。

そんな訳で車の中で話をする。そのイタリア人スタッフは、イタリア北部のベネチア近郊のヴェローナ出身で、イタリアでも建築学部では屈指の名門であるベネチア大学を卒業し、インターン経てフルタイムへとなり、既に一年ほどオフィスに在籍している。

出身がヴェローナということから、イタリアを代表する現代建築家、カルロ・スカルパの代表作であるカステル・ヴェッキオの話から、『ロミオとジュリエット』の舞台となった街並みなどから始まり、少し下に移動して一時期東ローマ帝国の首都機能が置かれた為に初期キリスト教文化が花開いたラヴェンナのサン・ヴィターレ教会や、少々内陸に移動してテアトロ・オリンピコなどパッラーディオ祭りとなっているヴィチェンツァの街など、ベネト地方を中心とした北部イタリアの話も徐々に中心地ベネチアに収束し、いい加減にどうにかしないといけなくなっているサン・マルコ広場の高潮時の水浸しや同じくスカルパのベネチア大学建築学部の門のデザインなどあれやこれやと話しているとふと思い出す一つのイタリア語の言葉。

「コルティジャーネ」

この本で出てくるイタリア語で、意味は「高級娼婦」。ベネチア共和国が富と権力の中心として栄えた1500年代の中ごろ。貴族に囲われた「コルティジャーネ」達は肉体的だけではなく、文化や学問にも高い知識を得ており、精神的にも肉体的にも特別な刺激を与える存在であったという。

「そんなある時代にのみ許された存在の彼女達の「視線の先」が問題なんだよ。」と話していると、「何の本ですか?」というので、「生物学」と答えると、「interesting」だと言う。確かにそうだろう。何で高級娼婦の視線の話が生物学に繋がるのか?

そんなことを考えているとやはりこの本を手にとらなければ、ここでこうしてイタリア人と「コルティジャーネ」について話す事も無かったと思うと、それもまた生命の神秘と言わずにいられない。

という導入がよく示すように、この著者は前作の「生物と無生物のあいだ」 で日本中にその文才と専門分野の高い知識を知らせると同時に、本当に頭の良い人と言うのはやはり総合知を併せ持つ人であり、どんなに高度な専門分野の内容でも、一般の人が興味を持つように、そしてかつただ単にレベルを落とすのではなく、品を保ちながら読ませることが出来る人。その為には深く正確な理解と、そして専門分野から離れた幅の広い知識と人間的経験が必要だと見事に証明してみせた。

そんな訳で「生命とは自己複製システムを持つこと」から始まり、「内部の内部は外部である」という建築家にとって非常にインスピレーションに溢れた言葉まで与えてくれた前作によって高められた次作への期待度。

ハードブックの専門書を覗けば新書としてこれが次作とよべると思うのだが、さて今度はどんな生命の物語に誘い出してくれるのか、素晴らしいファンタジーの映画でも見るかのようなワクワク感を持ちながらページをめくる。


恐らく作者自身、前作が余りにもうまくいき、自分自身も納得の美しい文章と構成に纏まった手ごたえを感じていたに違いない。だからこそかなり肩に力が入って、次の作品が生まれるのを待っていたに違いない。

そして選ばれた今回の導入は「トリプトファン」。まったく理解できない単語。そしてそれを、「私が好きなものの名称である。五角形と六角形が合わさったその姿が好きだ。」と少々のヒントと共に更に煙に巻いていく。

なかなかいい導入ではないだろうか。とりあえず、訳の分からない言葉で興味を引いておく。専門分野の中から分野外の人に向けての広告塔となるその言葉は、できるだけキャッチーである必要がある。「トリプトファン」。悪くない。「では建築なら何か?」そんなことを考えながらページをめくる。

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昔読んだシャーロック・ホームズの中にこんな話しが合った。ここにあるのは、何らかの暗号だ「英語のアルファベットで一番頻度が高く使われる文字を知っているかい。Eだよ」20種類のアミノ酸には、一文字のアルファベットがあてがわれる。

グルタミン酸はたいていのタンパク質の中に最も多く含まれるアミノ酸である。それはうまみを司る。

では一番頻度が低く使われる文字は?「タンパク質を構成しているアミノ酸で一番頻度が低く使われるものを知っているかい」それがトリプトファン。そしてそのアルファベットは「T」がすでにトレオニンにとられているから「W」
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ふむふむと生物学の本だと言う事を忘れさせる。この辺りの導入は素晴らしいと思わずにいられない。恐らくこういう導入部分を思いついて本を書き出したのでは?と思ってしまうほど。

/視線とは何か
ハーバード大学文化人類学者・テオドル・ベスターという権威を引っ張り出してきて、何を語らせるかと思えば、「築地」で行った魚類の網膜の一層下部にある反射板の調査。つまり光を反射する眼。そしてそれは人間にも同じ事が言えて、それが我々が感じ取る「視線」の正体だと迫っていく。

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/夜空の星はなぜ見える?
大学に入りたての頃、理科系の学生なら必ず読んでおくべき本というものがあった。それは教師が講義中にそういったのかもしれないし、誰かクラスメートが熱心に読んでいるのを見てそう思ったのかもしれない。共通の了解のもとにある書物が何冊かあった。「夜空の星はなぜ見える」田中一

/赤い光の粒子
星を追う人は、ずっと昔、少年の私にこう教えてくれた。夜空に星を探す時は、まっすぐに星を見てはいけない。眼の端で捉える様に。
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建築の世界でも、大学何年生までにはこの本を読んでなければ恥ずかしい。一人前ではない。と刷り込まれていた情報が確かにあり、そのリストを片付けることなくただただ本棚に増えていく専門書を恨めしく思いながら眺めていたあの時代。どの分野でも同じなんだとホッとしながら先を進む。

かなり建築好きだと思われる作者。007でも一作に一つ有名建築が登場するなどという都市伝説があったようななかったようなだが、こちらも前作ではカーン設計のソーク研究所。そして今回はメイヤー設計のゲティ・センター。建築家ならば誰でも知っている有名美術館である。

しかし建築家の視線が捉えるのは、曖昧模糊としたその空間性。斜面を利用して作られた建物に内部に現れる様々な地形とトレースした場所性。しかし作者が捕らえるのは更にスケールを落として辿りつく一枚の絵。

まるでグーグル・アースの様に、やっと視線に目的の絵を捕らえたと思ったら「グーーーー」っとズーム・アウトしてぐるっと地球を回り、再度ズーム・インして見えてくるのがベネチア。その案内人は須賀敦子。見えてくるのはどこを眺めているのか、虚空に投げられた「コルティジャーネ」達の視線。

その間に補助線として「須賀敦子の文章には幾何学的な美がある。本を書くに至るまで彼女がずっと長いときを待っていたという事実」と幾何学と時間を導入してくる。

そして視線によってつながれる二つの絵。線を繋げて気がついたら「環」として完結している。

学生時代にある先生から、「よい建築の条件」について教えられた。それは、「ある場所から建物を入って、中を体験していくと、いつの間にか一周して下の場所に戻ってこれる」それが良い建築の条件だと言う。

良い文章もまさに同じ。自ら引いた伏線が後々見事に閉じられて一つの「環」として成立する。その心地よさ。一つの世界をぐるりと見てきた達成感。しかし、建築でも敷地があり、プログラムがあり、コストがありと、様々な条件の中で行う設計作業の中で、そう毎回毎回うまい事「環」を閉じられるばかりではない。時にまぐれの様に、「ピタッ」と嵌る時があるが、大概はうまくいかずに四苦八苦するばかり。それは文章の世界でも同じようである。

それを物語るように、この時点までは非常に美しい幾何学によって文章が構成され、その構成に使われたマップが見えるかのようである。そして次の章の案内役はその「マップ」。

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おおよそ世の中の人間の性向はマップラバーとマップヘイターに二分類する事ができる。

マップラバー map lover 地図が大好き。俯瞰的に世界を知る事が空きなのだ 
マップヘイター map hater  地図はいらない 私と前後左右 自分との関係性

/ジグゾーパズルをどう作るか
マップラバーは俯瞰的な全体像と局所的な現場を行き来しながら、世界を構築していこうとする。しかしマップヘイターはそうしない。行動のルールが単純。自分の形と合致するかしないか。それだけ。個々のピースは、自分が全体のどの部分に定位しているかを知る必要が無い。つまりマッピングの必要が無い。
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この部分は非常に面白い。というか、マップヘイターと共に生きるマップラバーの苦悩を少しでもマップヘイターに理解してもらいたい。そんな訳でという訳ではないが妻に読ませて、「どう?どう?」と感想を聞いてみながら先を進む。

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ガン細胞
細胞は分化を果たすと一般に分裂をやめるか、その分裂速度を緩める。つまり自分が何者であるかを知り、落ち着くわけである

生命現象に、「部分」と呼べるものは、本当には実在しない。ある部分がある機能を担っているとする考え方は、俯瞰的な視点からの、マップラバーによる見立てにすぎない。

実在しているのはたった一つの受精卵から出発した細胞の連続的なバリエーションだけ
つまりここで存在と呼べるものは、部品という物質そのものではなく、動的な平衡とその効果でしかない
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恐らく、そろそろ本書の「肝」と言える部分に入ってきた雰囲気が出てくる。

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/プラスαの正体
全体は部分の総和以上の何ものかである

ミクロな物質がひとたび組み合わさると動き出す。代謝する。生殖して子孫を増やす。感情や意識が生まれる。思考までする。

生命を生命たらしめるバイタルなもの。それは、「生気」である。
流れ。
エネルギーと情報の流れ。
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これも凄い事実である。心臓、肺、腎臓、肝臓、骨、筋肉。それぞれがそれぞれとして存在していたら何も行わない。しかし一度身体と言う枠組みの中で組み合わされると、それぞれの器官の役割だけでなく、全体として更に様々なことをやりだす。妄想したり勝手な解釈をしたり、悲しんだり、喜んだり。誰も頼んでないのに勝手に行うそれらの生命活動。

オフィスもそう。個人が集まってある知的活動を行うのであるが、時に個の総和以上の働きをすることがある。その時に居合わせることは建築家としてとても心地よいものである。

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/アミノ酸の握手
この10年ほどのあいだに急速に明らかにされた意外な事実がある。細胞は、つくる仕組みよりも、こわす仕組みの方をずっと大切にしており、そのやり方はより精妙で、キャパシティもより大きい。
タンパク質の合成ルートは一通りしか存在しない。しかし、タンパク質を分解するルートは何通りも存在するのである。

/生命現象における秩序
新しい形が生まれるということは、すなわち新しい秩序が生み出されるということで
秩序とは「情報」の同意語
情報をつくりだすには、その対価としてエネルギーが必要となる

/秩序はこわされるのを待っている
トランプ・タワーには秩序とエネルギーが含まれている
秩序は、その中に、構築のための膨大なエネルギーと精妙さを内包している。けれども、ひとたび組み上げられた秩序を壊すためなら、ほんのわずかな揺らぎがありさえばよい。秩序は壊される事を待っているからである。

暖めたコーヒーはまもなく冷える。熱い恋愛ほどなく醒める
乱雑さ=エントロピー増大の法則
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ここらへんは、専門分野へ徐々に話を引っ張っていく導入であろう。繰り返すようであるが、小難しい専門分野の話を門外漢にどうやって分かりやすく、レベルを落とすことなく伝えるか?「ごちそうさん」の「熱伝導」をどう見つけるかという訳である。

そんな訳で妻をよんで、「家が汚れる、すぐにぐちゃぐちゃになる。これは世界の物理法則に沿っているんだ。だから誰が悪いわけではない。自然の法則にしたがっているんだ」とその反応を伺ってみる。

しかし問題なのは、すっかりエントロピーの法則の本質を忘れてしまっているので、「え、どういうこと?」と聞き返されるとすっかり説明できずになってしまう。

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/恐怖の研究室セミナー
君が無能だということ。
無能さに給与を払っている。

/たんぱく質の挙動を調べる「レシピ」
ヒトは常に間違える。忘れる。混乱する。だから、それをしないよう注意をするのではなく、それが起こらないための方法論を考えよ。あるいはミスが起こったときに、その被害が最小限にとどまるような仕組みを考えよ。それが君達の仕事だ。
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建築事務所をやっていると、どうしても能力の違ったスタッフ達と毎日接する事になり、上記のような言葉を思い切って発したいと思う衝動にも駆られることになる。しかし感情で言葉を発するのではなく、論理で理解させられるようにと数秒グッと堪えて説明をする。

恐らく前作のせいで上がった期待値が想像以上に高かった為だろうが、なかなかの導入に比べて後半は不可避の専門分野の内容に終始し、最後の最後で紙を捻ったらうまい事「環」が現れる的な綺麗な終わりとはいかなかった様である。

それでも、作品を作り続ける。専門のことを毎日やり続ける。手を動かし続けることが、昨日よりも今日を前に進めてくれるのだと理解し、自分に出来るのは建築の設計を今日もやり、少しでも美しいものを生み出しながら、同時に言語化する作業を怠らないことだと言い聞かせてページを閉じる事にする。

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目次
プロローグ パドヴァ、2002年6月
/最も希少な必須アミノ酸
/トリプトファンのゆくえ
/脳の中のバリアー
/毒を無毒化する仕事人
/酵素とは何か

第1章 ランゲルハンス島、1869年2月
/視線とは何か
/人間の眼も光る
/夜空の星はなぜ見える?
/赤い光の粒子
/眼の解像力
/パワーズ・オブ・テン
/ランゲルハンスの小さな島
/イームズのトリック

第2章 ヴェネツィア、2002年6月
/世界一ゴージャスな美術館
/石油王J・ポール・ゲティ
/「ラグーンのハンティング」の謎
/ヴェネツィア爛熟の影
/須賀敦子の歩いた道
/高級娼婦の視線の行方
/もともと一つの絵だった

第3章 相模原、2008年6月
/コンビニのサンドイッチはなぜ長持ちするか
/ものがくさるメカニズム
/ミクロな”パックマン”
/ソルビン酸の質
/人体には無害?
/インビトロの実験
/ヒトの細胞で実験してみると
/腸内細菌と人間の共生
/見えないリスク

第4章 ES細胞とガン細胞
/マップラバーとマップヘイター
/ジグゾーパズルをどう作るか
/細胞は互いに「空気」を読んでいる
/自分を探し続ける細胞
/ガン細胞とES細胞は紙一重

第5章 トランス・プランテーション
/境界のこちら側と向こう側
/鼻はどこまでが鼻か
/明確な仕切りはどこに?
/この世界がもつ可能性

第6章 細胞のなかの墓場
/プラスαの正体
/アミノ酸の握手
/生命現象における秩序
/秩序はこわされるのを待っている
/細胞の懸命な自転車操業
/死も誕生も定義次第?

第7章 脳のなかの古い水路
/脳に貼りついた奇妙なバイアス
/モザイク消しの秘密
/空耳・空目
/必死にパターンを見出そうとする
/おせっかいな認識回路
/見たと思ったものはすべて空目

第8章 ニューヨーク州イサカ、1980年1月
/恐怖の研究室セミナー
/流浪の科学者、エフレイム・ラッカー
/細胞のエネルギー代謝
/なぜ細胞はガン化するのか
/忍耐と体力勝負の精製実験

第9章 細胞の指紋を求めて
/たんぱく質の挙動を調べる「レシピ」
/アクリルアミドの高分子化
/ゲルに小さな浅い井戸を掘る
/井戸に細胞サンプルを落とす
/タンパク質を泳がせる
/細胞の指紋を浮かび上がらせる
/卓越した実験者

第10章 スペクターの神業
/なぜスペクターにだけそれができたか
/再構成実験にも成功
/ガン細胞が浪費家なワケ
/細胞レベルの仕事の切り替えスイッチ
/ミクロなくさび
/Pのゆくえを追跡する
/ブレーキとアクセルの平衡関係
/放射性同位体を可視化する

第11章 天空の城に建築学のルールはいらない
/神々の愛でし人
/ガン細胞と正常細胞は何が違うか
/リン酸化の滝
/ガンウイルスの働き
/高らかな勝利宣言
/鳴り響いた警告音
/そこにないはずの放射性同位体の存在

第12章 治すすべのない病
/スペクターはなぜ信用されたか
/たくみな偽装
/証拠不十分、嫌疑不十分
/どこまでが本当でどこからが嘘なのか
/追試実験はなぜ成功したか
/治すすべのない病

エピローグ かすみゆく星座

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