2013年12月29日日曜日

「新世界より 上・中・下」 貴志祐介 2008 ★★★

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第29回(2008年) 日本SF大賞受賞
PLAYBOYミステリー大賞2008年 第1位
2009年本屋大賞 6位
第30回(2008年度)吉川英治文学新人賞 候補 
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目次
I.若葉の季節
II.夏闇
III.深秋
IV.冬の遠雷
V.劫火
VI.闇に燃えし篝火は
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まぁ書店の店頭でも良く見かけた本であるし、様々なメディアでも持ち上げられ、著者の次回作に当たる「悪の教典」が「サイコパス」を題材に映画化までされる大ヒットのお陰もあり、その下地になっている本作にも改めてスポットライトが当たったということだろう。

日常を生きていれば、むかつくこともそれはそれは多々あるのが人間である。誰でも頭の中では、「こんな奴死んでしまえばいいのに」と思う事くらいあるだろう。「こいつがいなくなればどれだけせいせいするか」そんなことを思いながらも、しかし多くの人間がそれを実行はしない。

何故か?

それは法が許さないから。
社会が許さないから。
それをした後の自分の人生がどんなものか想像できるから。

なんとか我慢し、気持ちと折り合いをつけながら、周囲と調和して生きていく。それが社会で生きる人間の日常。

つまり理性が恐ろしい欲望を制御している。
では、それを制御する必要が無かったらどうなるか?
もしくは制御する理性を持ち合わせずに、思いのままに殺戮を繰り返しても何も感じないどころか、それを快感と感じるようであれば、どうだろうか?

本能のままの殺戮や殺害を実現させる為に、圧倒的な能力や技能が必要となる。「ハスミン」は高い知性と専門知識に高い身体能力も持ち合わせ、それに加えて高度な心理学の知識を使い周囲の人間を操っていった。

それに対して今回登場人物達に与えられる武器は何か?なんと念動力である。そう「ハンド・パワー」のようなものである。人間が「念」の力で自由に物理世界に影響を与える事ができるそんな魔法の様な世界が舞台。

「そんなバカな・・・」と口をあんぐりしてしまい、「ハリーポッターの世界みたいなもの?」とツッコミたくなってしまうが、それをつっこませないくらい世界観に説得力を持たせるためにどんな設定を持ってくるか、その答えが1000年後。

「恐るべし京都大学」と今度はその発想の転換を可能にした著者の出身大学につっこみたくなるが、現在の社会の痕跡を残しつつ、ハリーポッターやドラゴンボール並みの「念」の力が可能だと説得力を持つほど現在とは様変わりした社会を描くために必要な距離と時間。それが1000年。

常識が別の常識へと取って代わられるには相当な時間を必要とし、現在が古代として風化するにもそれなりの時間を要するということだろう。なによりも、人を人としてでないかのように、滅茶苦茶に殺しまくる姿に投影されたある種の心地よさや快感を現代人の良心や常識を頭の片すみに残していたら、それに共感する自分の心に一抹の罪悪感を感じずにいられないだろうが、常識的なセッティングでは甘っちょろくて、それすら白紙還元してくれるくらいな極端な舞台変換。それが1000年後。当たり前を当たり前としない未来のお話。

そんな風に著者自ら投げた時間のボール。しかし1000年というのは生半可な時間ではなく、それを物語の背景とするには、相当な作りこみが必要になるほどの時間である。

考えても見ればいい。今から1000年前、この国ではまだ鎌倉幕府すら設立しておらず、平安の都で貴族が朗らかに和歌でも詠んでいた時代に、どうやって1000年後のこの国で関東の田舎に移された首都の首長が、年の瀬に冷や汗流しながら札束に見立てた箱をバックにどう詰めれるかに四苦八苦しているなんて想像し得ただろうか?

その時間を埋めるのに引っ張り出されたのが物語のあちこちに登場する現在の我々の価値観から見ると「奇形」に映る動植物たち。様々なSF映画などでも常套句の様に使われてきたが、我々の世界とは違った進化の過程を経るか、もしくは地球という重力や環境の少しのパラメーターが変化したりすると、そこにはまったく異なった形態をした動植物が出現するはずである。

同じ重力場を持つ地球上でも、数千万年前には温熱環境の違いからあれほど巨大に成長した爬虫類である恐竜が闊歩していたという事実から、ちょっとの変化でまったく違った世界が現われるというのは誰でも小さな頃から夢想することであるが、それを1000年という進化の過程からいうと極めて短い時間で成し遂げるには何かしらのトリックが必要になる。

しかも、「奇形」を出現させつつも、人間は現在と同じ姿かたちのままに遺しておかないといけない。この二律背反を成し遂げないと、誰も感情移入して詠んでくれるような「お話」にはなりえない。なるほど難しい課題に助け舟を出すのはいつの時も終末戦争で押された核のボタン。放射能の影響を免れた人間と、影響を受けつつも進化の過程を変化させていった動物達。

兎にも角にも、今まで見たことのある生物とは明らかにかけ離れた生物の姿を見ると感じるある種の興奮をもたらし、生物の生存というより根源的な部分で直接脳に働きかけるような効果をもたらしつつ、トンでもないセッティングへのつっこみなどどうでもよくしていくその手法は流石と言える。

そして何よりも、現在の世界のように、科学を手中におさめ、弱肉強食の頂点に人間が立つ世界から、恐ろしいほど強力な「念」の力を持ちながらもそれが絶対的な優位を約束しない、人間が圧倒的に強いものではなく、人にとって危害を与えるような恐ろしい動物達が蠢きあう世界。

バケネズミ、ミノシロ、ミノシロモドキ、風船犬、ネコダマシ、フクロウシ、カヤノスヅクリ、トラバサミ、オオオニイソメ、クロゴケダニ、イッタンハエトリガミ、トラフクガビル、チスイナメクジ、スミフキ・・・

まるで荒俣宏の「世界大博物図鑑」をイメージするように、それぞれの想像上の動物にもどんな生態を持ち、どんな骨格で、どんな動きをするか。天敵が何で、どんな捕食をするのか。そしてどんな生殖活動をし、種を残していくのか。そんなことまで一つ一つ細かく詰められたのが良く分かるディテールのぶれない世界観。

それを見たことのない人に、どうやってその生き物をイメージさせるか?どうやって闇の中で目で追えないほど早く動くそれらの動物の恐ろしさを伝えるか?ヌメリとしたそれらの動物の体液をどう感じさせるか?恐怖を伝えるその描写力とそれを生み出した想像力、そしてそれを世界に定着させるディテールへのこだわりはひたすら素晴らしい。

そこまで詰めて構築していく未来の姿。そんな異様な世界の中に挿入されるのがびっくりするくらいのノスタルジー。異物の背景に恐ろしいほどの日常がかぶさった時の不思議な感覚。その並列の効用は新海誠でも多用されるようであるが、著者によって持ち出されたのは「夏祭り」「注連縄」ドヴォルザークの『新世界より』と「家路」など。

驚くほどあっけない現在のものに、束の間「あれ、これって今の時代の話なの?」と錯綜する効果もたっぷりなノスタルジーを纏わされたキーワードたち。


建築を職としていると、必ず向き合うのが「未来の姿とは何か?」の問い。その時に科学の進歩だけの安易な未来ではない未来を誰が描けるか?「アバター」で描かれたのも良き例であるが、ピカピカした冷たい未来から一気に舵を切って自然に回帰する未来。そしてそれではない、まったく違った物理ではないものが支配する未来を描いた著者。

とんでもない設定をとんでもないディテールと想像力でその未来をとりあえず成立させて豪腕。


物語の最初に語られる「悪鬼」と「業魔」の物語。あまりにも示唆的でいろんなことを暗示するその物語が、著者が発するメッセージであるようであるが、「社会というものは本当はギリギリのバランスで成り立っており、何かの拍子にとてつもなくそのバランスが崩れ、人間の欲望が物凄い世界を描いてしまうかもしれない」という危うさを伝えているようにしか聞こえない。

それが「サイコパス」となるのか、「悪鬼」や「業魔」となるのか。

そして同時に、「人は誰でもその心の中に、悪鬼や業魔を飼っている」という著者の思いがこの長編を最後まで書き終わらせるエネルギーとなったのだろうと勝手に想像する。

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