2013年10月10日木曜日

「光媒の花」 道尾秀介 2010 ★★★★


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第23回(2010年) 山本周五郎賞受賞
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埼玉から東京に向かう満員電車。完全拘束された身体を感じながら、とてもじゃないが両手をフリーにすることもできず、叶う事はなんとか左手で文庫本を開くくらい。そんな訳で線を引かずに読み進めることで、サクサクと読めてしまうそのスピード感に驚きながら一日で読み終えた一冊。

残り一章のところで妻が、「今度は何を読んでるの?」と聞いて来るので、本を閉じて説明しだすが、明確にこれというテーマがある訳でもなく、なんとも端的に説明するのは難しく、連続するはかない物語。

その中で繰り返されるのはちょっと歪み、拉いだ家族の形。決して安定する四角形ではなく、どこかアンバランスな家族の姿。そのアンバランスがもたらすストレス。その荷重。不均等な力のかかり方。それが作り出すちょっとした吹き出し口としての現象が、儚くも確かに紡がれていく糸の様に繋がっていく。

登場人物自体が繋がるのではなく、彼ら自身は決して気がつかないほどの微妙な現象がつながる。それは「誰でも誰かの人生に、何かの影響を与えているのかもしれない」という事につながり、その総体としてドラマが起こる貫井徳郎の「乱反射」のような紡ぎ方もあるのだろうが、決してそういう強いゴールを持たず、SANNAが向かい始めたハンドドローイングのもつ柔らかさを感じさせるような微差の建築のようなそんな儚さを感じさせる。

恐らくテクニック的にいろいろやっているんだろうと思う。短編が続いていくなかで前の章のちらっと出ていた人にバトンが渡されていく。がっちりしたロープで繋がれるのではなく、それこそ蝶の通る道で蝶道のような儚さ、絹の糸のような柔らかさくらいで繋がれていく。恐らく専門家から見ればきっと文学的なある技法だと言えるのだろうが、曖昧な割りに全体がグラつかない、ぶれない枠組みに守られている安心感が感じられる。

恐らくこの作者は、物語を考える時に、相当構成を練りこみ、それこそ設計図でも作っているんじゃないか?思うくらい、物語の世界観、登場人物の設定、彼らの関係性、彼らの生きる社会の中の居場所、彼らの日常などが非常にしっかりしている。

全体をどう構成するか、その大きな構え ジェスチャーをしっかり捉え、枠組みと要素をしっかり設計し、後はその設計が一番輝くように内部を歩いてやる。シークエンスを決めていく。その動きの中の設計へと移っていく。止まっていたものに命を吹き込むかのように。

それを見事に表すように、静止画を動画にする人つながりの世界の中の別の場所で物語を進行するだけではなく、時間も操作されるパラメーターの一つとなる。それがうまくいったかどうかは別にして、その着目点は圧巻。

テーマは何かを思っておぼろげに見えてくる家族の不完全さ。父が自殺し、その裏で決して消去されないかつての夏の物語。帰りの遅い共働きの両親の小さな兄妹。彼らが暗い川辺で遊ぶ時に遭遇する物語。その子供達を見守る浮浪者。中学時代の彼が親密な時間を過ごした同級生のサチは父のいない貧しい家庭で育つ。そのサチが次の章では幸として大人になり、今度はアパートの隣に住まう耳の聞こえなくなったユキという女の子にバトンを渡す。なんともお見事なシークエンス。

それと同時に思われるのは、作者の作品であまり描かれることのない都会の風景。現在は茨城県在住という作者の住んでいる場所、生まれ育った環境に起因するのかもしれないが、描かれるのは多くの日本人が思い描けるような現代の原風景。川があり、川辺があり、草むらがあり、虫がいる。その河川敷をトラックが走り、人々が朝晩と歩いていく。

そんな風景を物語の中と同じく、東京と埼玉の境目を走る電車の中で読み終えながら、最終に近い電車から吐き出されるようにして降りていく人の姿を眺めながら、決して明るくはないが、決して絶望的でもない現代の日本の日常がその一人ひとりにもあるのだろうと勝手な想像を膨らませることにする。

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