2012年12月19日水曜日

「エクサバイト」 服部真澄 2011 ★★★★

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目次
プロローグ 2033年
第1章 2025年
第2章 2025年
第3章 2031年
第4章 2119年
解説 池上彰
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今年度読んだ中でも強烈な印象を残した一冊に選べる一冊。

エクサバイトはデータの量やコンピュータの記憶装置の大きさを表す単位。 EBと略記される。

キロ
メガ
ギガ
テラ
ペタ
エクサ
ゼタ
ヨタ

多くのデータを扱う建築設計という世界に身をおいていても今はテラの時代。10数年前、学生時代にメガバイト時代に増えるデータ容量と、バックアップのためのHDの費用とで四苦八苦していたのが嘘の様に、ギガを超えて既にテラの時代。

もちろんオプティマイゼーションが日常業務の一つとなるのと同時に、来年はひょっとして「ペタ」と口にしているかもしれないと思わずにいられない。

かつては印刷した写真をアルバムに入れていたのがいつのことか懐かしいように、今では日常の中で写真は撮り放題で、見返すかも分からないがとにかくデータとして保存する。それどころか静止画のコマ送りである動画までデータとして保存し、個人がストックする記憶のデータは加速度的に増えていく。

現代の日常においても、「あの時みたあの建物のあの扉のディテール良かった気がするな・・・」と記憶の片隅に残っているイメージを元にして、「あそこに行ったのは何年だったっけ。何月くらいだったから・・・」とフォルダーを掘り起こし、該当する日付の写真を見つけ出す。

もしくは、保存する時にうまい事フォルダー名をつけておいたならば、「建築家の名前、建物の名前、都市の名前」など「タグ」から該当写真を見つけることが出来る。

では、今後この流れはどうなっていくだろうか?

そんな刺激的な問いに自分が知る中では一番現実性を持ち、かつ想像力豊かに答えたのがこの作品。

時は2033年。「ヴェジブル・ユニット」とよばれる極限まで小型化されたカメラを両目の間に埋め込んだ人類は、その15テラバイトのメモリ容量に支えられ、自らが見聞きしたものすべてを一生にわたって記憶し続けける。

「あなたの見てきたことが、映像となって残ります。生涯の記憶、見える日記、見える自伝」

そんな広告に誘われるように、様々な人が「ヴェジブル・ユニット」を装着し、人類の生きた映像データを増加させていく。

そうなると、そのデータを集めて、より多視点の記憶。総体的な記憶を構築しようと試みるものが現れる。まさに現代で言えばグーグルのようなIT巨人。同時間に生きるさまざまな人の見たもの、記憶をトラックできれば、例えばある殺人事件が起こったときに、その時にどういう状況だったのか?当該者達が過去にどのような問題を抱えていたのか?それがどのように発展して事件が発生したのか?などという、「マイノリティ・リポート」に近いことが可能になる。

そしてそれは、次の事件の発生を防ぐ事になる。つまりより多くの人間の記憶を手に入れたものが、より多くの力を手に入れることになる。その時に発生が予想される問題。現代の「グーグル・ストリート」で起こっている問題のより未来版。如何にプライバシーに関する問題をクリアするかまでよく考え込まれており、それがうまく物語りに入り込んでいる。

データが膨大になる時に起こるもう一つの問題。それをどうフィルタリングして、重要なものを選り分けていくか?写真でも何百と言う枚数から重要な一枚を探し出すのはとても大きな労力を使うことになる。しかも「何をポイントとして重要とするか?」というパラメーターが変わってしまえばそのフィルタリングの結果も大きく変わってしまう。

それが今度は一人の人生すべてといえる映像。そしてそのほとんどはなんとも退屈な日常風景。その中からどうやって、その人物の人生を決定付ける重要な瞬間を検索するのか?という「検索」の問題が大きくクローズアップしてくるだろうというのは、流石といえる作者の視線。

何度も何度も映像に表れてくる人物はその記憶の持ち主にとって重要な意味を持つ人物であったに違いない。

というような「タグ」のつけ方。そのタグのプログラミングを行う「検索システムデザイナー」という鋭い視点。移動や冠婚葬祭という人生の大きなターニングポイント。それらを検索し、見たいところだけをすばやく選り分け、頭だしして再生していく。

そんな時代に現れるのは、自分が生きた証を人類の歴史として提供しようとする自尊心をくすぐる巨大なビジネス。歴史に名を残したい普通の人々。通常なら死亡時にデータが消滅するべくセットされているが、本人が望めば百年後に指名した人物に記憶のデータを譲渡することが出来る。それを使って、人類の共通のデータを作って新たなる歴史を編纂しようとする意図。

一人ひとりの一生は何の変哲も無いかもしれない。しかしとある出来事が、世界を動かしているかもしれない。

まさに全人類検索。

なんとも恐ろしいが、実現しないと誰が言えるのだろうか?ではその先に待つのは何だろうか?人類の記憶を手にした一企業が次にあけるパンドラの箱とは?

それこそ歴史の捏造。

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つまり、ものを突き詰めて考えている者だけだよ。一般的には自分の理想像を残したがるからね。個々の人間が記録を美化してしまう。

古代の人間は、現代のような文明の利器や情報手段を持たなかった。けれども、だからといって不幸だったのだろうか?
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過去に何度も行われてきたように、勝者によって都合のよいように塗り替えられる歴史。誰もが懸命に自らの過去を飾り立てようとする。

引用されるのは美術修復や鑑定の技術。進歩した技術は立体画像の修復すら可能にする。しかしそこでも使われるのは修復理論の三原則と呼ばれるブランディの三原則。

1 修復に際して加える処置 その後に見たとき、明確に修復だと確認できるものでなくてはならない。
2 作品の見かけ上の仕上がりを変えてはならない
3 修復処置は容易に元に戻せるものでなくてはならない

修復というのはオリジナルに戻すことではない。あくまでも時間を経た現在の美術品の状態を修復する。

しかし悪意を持ったものが現れ、目の前にある実態を持った作品を偽装するのではなく、その物体をパソコン上に取り込んだスキャンされたデータのほうを加工したらどうなるか。柄は相変わらず偽者。ところがスキャンデータは脚色されたもの。
 
過去や現在をありのまま持ってゆくことはできない。それが現実だ、未来に残された記録データが真なのか偽なのか、誰に確かめることができるというのかね。

何が本物で何が偽者か。その質問すら何を意味するのだろうか。


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病人を献身的に介護するのは、遠隔操作でそれらの位置や角度を調整することができる介護ロボット。家族は病室に足を運ぶ必要が無く、お互いの立体映像を介し言葉を交わし、デリバリー業者によって施設に届けらる花を選ぶような世界。ツールにより距離を一足飛びに縮めていく。

オッジは今日
ドマーニは明日
イエリは昨日

組織を病ませるのは、いつだって個人
一人の野心家の存在が、いつでもすべての無にする

都合の悪いことは忘れ去る、あるいは隠す。そうしなければ、生きてゆけないんだ。人も、組織も。誰にもどうすることのできない定めなのだ。
時と記憶とは相容れないんだ。記憶された事実にこだわりすぎれば、命が危うくなる

ありがたいことに、辛い記憶や苦しい思いでは日ごとに薄らぐ。最愛の肉親を失っても、いつかは涙が涸れる。時折、感情が強く掻き立てられることはあっても。誰しも、苦しい記憶をそのままの形で恒常的に抱え続けてはやりきれない。

心の苦しみは、人をじりじりと死に導いていく。強いストレスは身体を蝕んでいく。激しい憎しみを生み、爆発的なエネルギーとなる。

誰にも、人には知られたくないことがある 万人がごまかし、自分を飾り立てる。

人間の生活は、すべて自己保存につながる行動だ。大部分はエゴの塊なのだ。

幸い記憶では、我々はそれをなかったことにできる。いともやすやすと、人は他人の知らない自分の過去を偽り、飾る。そればかりか、事実を美しい包装紙でくるみ、あたかも一場の夢であったかのように思いなしてしまう。記憶の中で、不意打ちもだまし討ちも英雄の手柄に変わる。自分に関心を持ってくれた何のとりえも無いみすぼらしい女は、歳月の中で薄倖の美女になり、くだらない切手やコインを少しばかり集めただけだったのに、失ったアルバムに備えられていた蒐集品は、どれも選りすぐりの逸品ぞろいだったと思えてくる。昔はそれだけのことができる人間だったのだ、と思い直す。自分には生きる価値があると自身に暗示をかけ、思い込み、あるいはそう振舞う事で初めて、日々、新しく生きてゆくことができる。過去に闇を持たぬ人間など居ないのだ。それでいながら、現実には、皆、そのことをものともせずに生きている・・・
それこそ記憶の効用なのだ。それゆえ・・・真実のみが織り成してきたことなど、この世には存在しなかった。これまでは。絶対にだ。嘘の糸がとめどなく吐かれ、綴られ、なかにほんの数本、真実がごく僅かに混じる、それが我々の織り成してきた世界だ。君達も同じだろう。忘れることができるからこそ、この仕事を続けながら、生き続けられる。そう思わないか。

人間の生活は、ずっと見てゆけば、いずれも似たり寄ったりなのだ。誰もが何より大切にしているのは、自身のイメージの保持だ。滑稽なくらいにね。それも、地位や持っている金の高さに比例して、それらの保持や見栄のためにあくせくして、費やす時間が増えてゆく。死んだ時間が。自分が生まれつき与えられている持ち時間が、何かによって、いつのまにか侵蝕されてゆくんだ。私は、そんな生活はごめんだと思い始めた。君達に、自身の時間はあるのかね?世間対も何も気にせずに、好きなことにかまかけて過ごせる時間が。もし、生きた時間があるのだとしたら、それを心ゆくまで楽しみ、大切にすることだ・・・
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パソコンの進化と共に、人の「記憶と記録」の役割が徐々に意味を変えてきている現代。このまま無意識に技術の進歩に身体を預けていればいったいどんな未来がやってくるのか?その時に我々の「記憶」とは何を意味するのだろうか?

作者が必死に感が抜いた末に人類に慣らした警鐘のような美しい作品。今後の人生で何度も何度もこの本を思い出す瞬間が訪れるだろうと確信しながらページを閉じることにする。


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