2011年11月12日土曜日

体育館みたいな都市

最近よく思うのは、東京は体育館みたいなものなんだということ。

つまりは、とても大きな体育館みたいな箱があって、「僕は何時から何時まで何番コートを」というように、事前に使用時間を申請して、皆その時間は好きなように使ってお金を払う。

その時間が朝の9時から夕方の17時の人たちもいれば、明け方の2時から朝6時までの人もいて、使う場所も、堂々と真ん中のコートで大人数のスポーツをする人もいれば、夜の遅い時間に一人でやってきて、隅っこのところに机を並べてフィギュアなどを作っているような人もいるだろう。

その風景というのは、結局その人からの風景しか無くて、全体を見ることは不可能に近い。池袋でバーを経営するバーテンの見ている東京は、同じ間に渋谷のセンター街にたむろする若者の見ている東京とも違うだろうし、その東京に登場する人物たちもまた違ってくる。

それぐらい東京というのは大きい、メガロポリスというのは掴みどころがないということであるが、これが例えば熊本や広島あたりの都市ならば、もう少し総体として、自分がこの都市のどこに位置して、どのような役割を演じているか、それがなんとなく掴めるそんな気がする。

それがサイズの問題なのか、大きなの問題なのか、システムの問題なのか、それは考える必要があると思うが、とにかく東京は大きく、いくつもの東京が内在している。

そんな体育館としての東京。壁かな?と思っていたところに、ひっそりドアがついていて、そのドアには関係者以外立ち入り禁止と張り紙が・・・・

そんな風に、誰もが自由に公平にいつでも使えると思っていた体育館の中に、大きなスペースを占領して他の人が入ってこれなくしてしまって、自分たちだけで独自のシステムを作り出しているグループがいるみたいなものだろう。

都市の自由な風通しのさえぎる厚いコンクリートの壁を立ち上げ、巨大都市の生み出す巨額の利益の大半を吸い取り、その隠された秩序が見えないようにひっそりとそこにいる。そして残ったスペースは好きなようにつかっていいよと言わんばかりに扉を閉める。

そんなことをするから、メガロポリスとしてのポテンシャルを最大限発揮して、住みよい魅力ある都市にななる可能性を秘めているのに、それを遮られ細分化され総体を失う東京。

それならばいっそ外に出て広い草原を走り回る、それともその壁を皆で壊してしまう、そんな選択肢もあるんだと思う人も出てくる時代も遠く無さそうだ。

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